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そして続く道 - 泣く子
今日は、ユーシャラがシャッコから離れたがらない。まとわりついていれば満足と言うわけではなく、足にしがみつくのも、腰の辺りにしがみつくのも、きちんと抱き上げられなければ足りないらしく、他は何をどうされてもされなくても泣き喚く。朝食は何とか普通に済ましたけれど、昼食はシャッコの首にしがみついたまま一時(いっとき)も離れず、ユーシャラをシャッコが抱いたまま、キリコがシャッコの肩越しに食事をさせる羽目になった。
いくら小さいとは言っても、1日抱えて動き回れば腕も肩も疲れる。夕方にはシャッコはもう椅子に座ったまま、自分にしがみつくユーシャラを膝に抱いて、ろくに動きもしなくなった。
何度かキリコが助け舟を出して、ユーシャラを抱き取ろうとしたけれど、シャッコと少しでも離れた途端、家中が揺れるほど泣き始める。さすがに腹に据えかねて、キリコがそのまま部屋に閉じ込めようとしたのを、シャッコが止めた。
「いい、こっちに寄越せ。」
可哀想だとまたユーシャラを取り返し、疲れた貌(かお)でユーシャラを胸に抱く。
ユーシャラもまた、大人の男ふたりを日長一日散々振り回して、それでも何か不満気に、シャッコの胸に額や頬をこすりつけている。何かが足りないのだろうけれど、それが何かわからず、またこちらに伝える術も持たない子どもは、泣くか喚くか、そうするしか手立てがない。
時々シャッコの胸や肩を小さな拳で叩いて、抱かれていてもしばらく泣く。泣くのに疲れるとシャッコにしがみつき、親指を吸い始める。そうしている間は少しだけおとなしく、けれどずっとそうしているわけではなく、親指もすべてをなだめてくれるわけではないようで、よだれでふやけてしまった親指を口から取り出すと、何かシャッコに言い、ほとんど喚くように言葉を並べて、また泣き出す。
抱いたまま外へ連れ出して、少しの間歩き回っても、泣き声が家の中から遠ざかると言うだけで機嫌は治らないまま、こんな時、生みの母親なら、抱いていて何か伝わるものでもあるのだろうかと、血も繋がらなければ母親でもないふたりは、涙とよだれで小さな顔をくしゃくしゃにしたユーシャラを眺めて、一緒にため息を吐く。
ユーシャラは1日中泣き続けて疲れ果てたのか、食欲も失くした風に、もう夕食には見向きもしなかった。
キリコも、無理矢理食事をさせる気にもならず、今夜はもう風呂に入れるのも諦めて、シャッコに抱かせたまま、顔と手足だけは拭いてきれいにしてやった。
今夜はもうこれでおとなしく寝ろと、保護者ふたりが思うのだけは伝わるのか、一応小さくあくびをするくせに、シャッコが部屋へ連れて行ってベッドへ降ろそうとすると、元の木阿弥でまた泣き喚き始める。このままシャッコが抱いていれば、眠りもせずにずっとぐずってひと晩過ごしてしまいそうだった。
シャッコは、ユーシャラと一緒に疲れ果てて、このままユーシャラがひと晩眠らないつもりならそれに付き合おうと、ほとんど投げやりに決めた。黙って部屋から出て、食卓へ戻り椅子に坐る。ユーシャラはまだ明かりのある部屋に安心したように、また親指を口に入れて、シャッコの胸に小さな体を預けて来た。
「ひと晩中付き合うつもりか。」
ここまで付き合ったキリコもさすがに限度を越したと言う声で、ただ確かめるようにシャッコに訊く。シャッコはキリコの方をもう見もせずに、
「ひと晩中泣かれるよりはいい。」
ユーシャラの小さな背中を撫でて答えた。
キリコは肩をすくめてシャッコの後ろを通り過ぎ、そのままふいと外へ出て行く。シャッコがユーシャラに付き合うのは勝手だけれど、キリコがそれに付き合う義理はない。それはそうだと、泥の詰まったような頭の奥で考えて、朝までこのユーシャラとふたりきりかと、シャッコはこれからやって来る長い夜に向かって、小さく小さく息をこぼした。
動く誰も他にはいない家の中が、急にしんとする。それでもユーシャラが立てる音だけはしっかりと耳に届いて、そのうち寝てしまえばベッドに連れて行けるかもしれないと、淡い希望だけは捨てずにいた。
思ったよりもずっと早く、足音が外から戻って来た。
泣くユーシャラに付き合うのにうんざりして、今夜はもしかして外で寝る気かと半ば本気で思っていたので、戻って来たキリコに、シャッコは少し驚いていた。
「ユーシャラ。」
泣いてはいなくても、相変わらず目はぱっちりと開けたままのユーシャラに、キリコが声を掛ける。ユーシャラはシャッコに抱かれたままもぞもぞと動いて、一応キリコの方へ瞳を動かした。
近づいて来るキリコの手には、シャッコのシャツとシャッコのスパナがあり、それを見た途端、ユーシャラの小さな体が跳ねて、キリコの方へ短い腕を伸ばし始めた。
今日1日中、ほとんど一瞬もシャッコから離れたがらなかったのに、それを見た途端、ユーシャラは文字通り目の色を変えて、キリコがまずシャツを与えると、胸の前にたぐり寄せて抱え込み、小さな手の中につかんだ部分を、親指と一緒に口の中に入れる。
「これもいるか。」
細身で長さのあるそれは、なぜかユーシャラのお気に入りだ。シャッコが工具を出すと、必ずそれを見つけてどこかへ持ち去ろうとする。キリコが、それを指先につまんでふらふらと目の前で揺すってやると、ユーシャラはほとんどシャッコの腕から飛び出しそうに、空いた手と体を伸ばして来た。
「やるから今夜はおとなしく寝ろ。」
キリコがアストラギウス語で言った、その取り引きの内容を正しく理解したのかどうか、ユーシャラは思い掛けない素早さでそれを奪い取って、すでに抱え込んでいるシャッコのシャツと一緒に、胸の前にしっかりと抱く。
それがあれば、もうシャッコ自身はいらないとでも言うように、シャッコの胸を押し、体を反らしてそこから降りようとする。そのユーシャラを、シャッコはとりあえずはそっと床に降ろし、やっと空になった腕を思わず撫でた。
今日、ほとんど初めてひとりで床に立ち、ユーシャラは両手にシャッコのシャツとスパナを抱えて、そのままくるりと踵を返した。
どこへ行く、とふたりが腕を伸ばすより早く、ぱたぱたと小さな足音を立てて、家の奥へ駆け込んでゆく。慌ててふたりが追うと、ユーシャラのゆく先は自分の部屋ではなく、ふたりの部屋の方だった。
小さな頭で意外に知恵を回し、シャッコのベッドの上へ、シャッコのシャツとスパナをまず放り上げ、それから必死で自分もそこへ這い上がる。ふたりは、ユーシャラが落ちて怪我をしないように傍で見守りながら、何をする気かと思うだけで手は出さない。
そこに並んでいる枕ふたつの内、正確にシャッコの使う枕を取り上げ、もうひとつの、キリコが使う──夕べそこで寝た、そのままだったから──枕は片手で押して床へ落とし、シャッコの枕をベッドの真ん中へきちんと置くと、シャッコのシャツとスパナをしっかりと抱え込んで、ユーシャラは自分で横になった。
「おやすみ。」
それだけは、キリコから口移しに覚えたアストラギウス語で正確に言う。
シャッコの、たとえキリコひとりでも大きすぎるベッドの真ん中に、ユーシャラがやや体を丸めて寝る姿勢になったのを、ふたりは揃って呆気に取られたまま、それから2拍分の長さ眺める羽目になった。
ユーシャラがそうしてそこで寝てしまうと、シャッコの入るスペースがやや足りない。けれど、このまま寝てくれるならもう十分だと、これ以上どうする気もなく、キリコは肩をすくめ、シャッコはやれやれとため息をこぼして、ふたりで顔を見合わせた後、やっと安堵したように一緒に苦笑する。
シャッコは、ユーシャラの小さな体をきちんと毛布で覆ってやり、自分が寝かしつける時は必ずそうするように、こめかみの辺りにおやすみのキスをひとつした。
「おやすみ。」
シャッコが言うと、
「おやすみ。」
ユーシャラがそう返し、キリコは床に落とされてしまった自分の枕を拾い上げて自分のベッドへ投げ、それから、
「おやすみ。」
と、自分もユーシャラに声を掛けた。
キリコには返事がなく、キリコはほんの少しだけそれに傷ついて、けれど肩をそびやかしてそれを振り払い、シャッコと一緒に部屋を出た。
「今夜はどこで寝るつもりだ。」
静かにきっちりとドアを閉めてから、立ち止まったまま、キリコは低めた声でシャッコに訊いた。
「さあな。おまえのベッドで一緒に寝るか。」
「クエント人は寝なくても平気なんじゃないのか。」
キリコが混ぜっ返すように言うと、シャッコが生真面目に首を縮めて見せる。
1日中、泣き喚くユーシャラに付き合って、疲れていないわけがない。消耗し切って、今すぐにもベッドへ転がり込みたいだろうと思っても、キリコのベッドはシャッコには少々丈が足りない。キリコと一緒に寝れば、手足もろくに伸ばせないのは目に見えていた。シャッコにベッドを譲るのは構わないにしても、現実的にはベッドにサイズが足りない。
「ベルゼルガのコックピットの方がマシだろう。」
「久しぶりに野宿でもするか。」
満更冗談でもなさそうに、シャッコが家の表へ視線を投げながら言う。
外でなくても、ユーシャラの部屋の床に寝袋でも敷くと言う手はないでもなかった。それでも、泣き続けるユーシャラに付き合って、家の中に閉じ込められたような気分でいた1日分、今は何となくどこまで開けた外の空気が恋しくて、シャッコは軽くキリコの背中を押し、そのまま家の外へ出た。
扉は開け放したまま、少しの間そこへ立って、ただ暗い辺りを眺めて、それからシャッコは、いかにも疲れたと言う風に、後ろから両腕を巻きつけてキリコに寄り掛かった。頭の上に、伸ばしたあごをだらしなく乗せ、キリコの髪から、ユーシャラと同じ石鹸の匂いがするのに、自分もきっと同じ匂いをさせているのだろうと思う。
胸の前に回した腕に、キリコが触れて来る。今日は1日、ずっとこうしてキリコに触れたかったのだと気づいて、シャッコは、今夜はこれ以上何もする気はなかった──場所もない──けれど、やっとふたりきりになれたこの時間に感謝して、腕の輪をそっと縮めた。
「おまえのベッドでいい。」
頭に乗せたあごを肩口へ滑らせながら、耳の近くでそう言った。
「じゃあ、おれはユーシャラの部屋で──」
言葉の途中にかぶせるように、
「おまえと一緒にだ。」
珍しく、それ以上は言わせない強さでシャッコが言うと、キリコは黙り込んだしばらく後で、ぼそりとつぶやく。
「ふたりは狭いぞ。」
その方がいい。抱き合って、手足も何もかも密着させて眠る口実になる。シャッコが言わない部分を悟って、キリコはその後でまたぼそりと続けた。
「・・・好きにしろ。」
ユーシャラはシャッコがいいと1日泣き喚き、シャッコはキリコがいいと今言い、ユーシャラにおやすみと返してもらえずにかすかに傷ついたキリコは、間違いなくユーシャラを必要としていて、そしてユーシャラのためだけではなく、キリコ自身のためにシャッコが必要だった。こんな日もある。明日にはもしかすると、ユーシャラはキリコがいいと、1日中泣き喚くのかもしれない。
家の中の、ユーシャラに気配に耳を澄ませながら、ふたりはまだそこにいて、静かな時間を分け合っている。明日にはまた、ユーシャラ相手の手探りの別の1日がやって来る。
キリコを抱いて、シャッコはまだ動かない。アストラギウス語もクエント語もなく、子どもの泣き声もない夜のしじまに、ふたりが息をする音だけが、夜気に交ざり込んでいる。