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そして続く道 - 雪遊び

 ここの冬はそれほどは厳しくないはずだと、ヴァニラやココナがそう教えてくれた。冬の支度──特に、ユーシャラの──を手伝ってくれたのは、主にココナだった。
 「寒いところで暮らしたことはあるか?」
 「しばらくいたことはある。」
 シャッコの答えはそれ以上でもそれ以下でもなく、キリコのそれも似たり寄ったりだ。
 寒さが厳しくてどうしようもなければ、冬の間だけでもグルフェーへ戻って来ればいいと、ここへ移る最初から言われていたから、とにかくユーシャラが病気になったりしないようにと、ふたりが心配していたのはそのことばかりだった。
 冬はゆっくりと訪れて来て、まだ秋の終わりかと曖昧な天気がずっと続いた後で、ちらちらと雪の降る日もあったけれど、雨に例えればそれは小雨程度のもので、ここの冬とやらはこんなものなのかとふたりが思い始めたある日、静かな夜が明けた後に、雪の積もった朝がやって来た。
 ぜいぜいシャッコの指が半分埋まる程度の積もり方だったけれど、慣れていなければATやトラックを走らせるのに用心がいりそうな程度に、ふわふわと足元が少し危うい。
 窓から、真っ白にきらきら光る雪を見て、当然ながらユーシャラは喜びの声を上げた。
 「しろ!まっしろ!」
 雪と言う言葉は、クエント語にはないと言うので、それだけはアストラギウス語でキリコが言うと、ユーシャラはシャッコを見上げてから、
 「雪、だ。」
 シャッコの口から言われて、初めてそれを口移しにする。
 「ゆき?」
 「そうだ。」
 「ゆき!」
 キリコに抱かれて窓の外を眺めていたかと思うと、降ろせと暴れて、キリコの腕の中からひとりで飛び出す。
 まだ起きたばかりの寝巻きのままで、しかも素足のまま、外へ出ようと扉へ走って行った。
 「着替えが先だ。」
 シャッコよりも先に、キリコがユーシャラを捕まえ、そして着替えよりも先に、まずは朝食を済ませることになる。
 一刻も早く外に出たいユーシャラに急かされるように、食事はいつもより早く終わり、後片付けは後回しにして、ふたり掛かりでユーシャラを着替えさせた。
 一応、シャツを2枚、ココナが用意してくれた毛のついた上着を着せ、同じような造りの、小さなブーツを履かせる。
 丸く着膨れたユーシャラは、いつもよりも身軽と言うわけに行かず、歩きにくそうに、動きにくそうに、よたよたと扉のところへ行って、ふたりに着替えをする時間も与えない。
 ユーシャラほど用心のいらないふたりは、フードつきの毛皮の上着を羽織り、足元はいつものブーツで充分だった。
 シャッコが扉を開けると、ユーシャラはもどかしそうに自分も扉を押し、隙間に無理矢理体を押し込んで外へ抜け出し、雪の上を駆け出してゆく。
 何の跡も見えない、せいぜいが風の吹く方向へ、かすかな波の山が見える程度の真っ白な雪の上に、ユーシャラの小さな足跡が点々と続く。
 ユーシャラが転んだのが見えた。泣きもせず、危なっかしく立ち上がり、またよたよたと駆け出す。こちらへ振り返り、キリコとシャッコが、家の前できちんと見守っているのを確かめると、また先へ走り出す。
 ゆき、と叫んでいるのが、時々ふたりの耳に届いた。
 真っ直ぐ──本人はそのつもりだ──走るのに飽きたのか、左折し、そこからまた真っ直ぐ走る。途中で足を止め、しゃがみ込み、雪に触れ、きゃっきゃと声を立て、手にすくった雪を宙に投げる。さらさらと軽い雪は、きらきらと細かな粒になって、かすかに吹く風にさらわれてゆく。ユーシャラは、それを体ごと追って、それからまたふたりの方へ振り返り、自分が見守られていることを確かめる。
 白い息を吐きながら、ふたりはユーシャラの走る姿を目で追い、気づかずに薄く微笑んでいた。知らずに親の貌(かお)で、遊ぶユーシャラを眺めている。ユーシャラが雪遊びに飽かないように、ふたりも、退屈とも思わずにユーシャラを見守っていた。
 思ったよりもずっと広い範囲に小さな足跡を残して、時々、転んだ跡も残して、ユーシャラがやっとこちらへ体の向きを変える。体よりも大きな白い息を吐きながら、走り出した時よりもずっとゆっくり、何か自分の両手をじっと眺めながら、家の前へ戻って来る。
 「シャッコ。」
 さっきまでの楽しそうなはしゃぎ声はどこへやったのか、ずいぶんと悲しそうに、ユーシャラの声がふたりの耳に届いた。
 ユーシャラのその声が聞こえた途端、シャッコはほとんど飛ぶようにユーシャラへ歩み寄り、
 「シャッコ。」
 もう一度自分を呼んだユーシャラの前に、大きな体を傾ける。しゃがみ込んだシャッコの目の前に、ユーシャラが小さな両手を差し出した。
 「いたい。」
 指先と掌が真っ赤になっている。雪に触り過ぎた両手が、しびれて痛いのだと、そう訴える目が、すでに泣きそうに潤んでいた。
 痛いと感じる理由がわからないのが不安らしく、手だけではなくて、散々風を浴びた顔も、頬と鼻先が真っ赤だ。唇の色が少し褪せている。
 シャッコはユーシャラの小さな手を、自分の両手の間に挟んだ。せめてしびれと痛みが早く治まらないかと、そこではあっと息を吐き掛ける。自分の身を全部包み込むような、シャッコの息の白さに驚いたのか、ユーシャラがびくりと体を震わせた。
 「大丈夫か。」
 ふたりのやり取りを眺めていたキリコも、ユーシャラの様子を確かめにやって来る。
 「少し長過ぎたようだ。」
 キリコを見上げてシャッコが言う。
 「中に入ろう。」
 キリコが促すと、クエント語でなくても、こういう時には会話の内容がわかるらしいユーシャラが、するりとシャッコから小さな手を引き抜き、また雪の中へ駆け出してゆく。
 痛くても寒くても、まだ外にいたいらしい。
 「ユーシャラ!」
 シャッコは慌ててユーシャラを捕まえて、逃れようと暴れるのを、しっかりと腕の中に抱き上げた。
 「上着の中に入れてやればいい。」
 キリコが、珍しく茶化すように、微笑みを浮かべて言う。
 シャッコは、まだじたばたしているユーシャラを眺め、キリコの吐く息の行方を追ってから、心を決める前に、小さくため息を吐いた。
 ユーシャラを片腕抱きにして、素早く上着の前を開き、そこへすっぽりとユーシャラを抱え込む。上着の前は、キリコが同じほど素早く閉めてやった。
 「暴れるな。」
 言い聞かせるように、シャッコが目の前のユーシャラに向かって声を低める。ユーシャラはそこで肩をすくめ、そして、雪の上を駆け回れなくても、シャッコに抱いてあたためられて、雪を眺めているだけでも充分だと思い直したらしかった。
 「まだ、雪遊びは少し早いな。」
 ユーシャラに雪が見えるように、体の向きを変えたシャッコと肩を並べながら、キリコが言う。
 「寒さの限度を、おれたちが分からないからな。」
 シャッコが大きな肩をすくめて、上着の中のユーシャラをまた抱きしめる。
 ユーシャラの、雪に湿った上着やブーツが冷たいのか、シャッコは何度か顔をしかめた。
 「ゆーき、ゆき!」
 歌うように、ユーシャラが叫ぶ。シャッコの上着の中から、腕だけ抜き出して、キリコとシャッコを交互に見ながら、自分の足跡をあちこち指差す。誇らしげに、満面の笑みを浮かべて、どうやら指先の痛みは引きつつあるようだった。
 「寒くないか。」
 そう言ったのは、ユーシャラにだと思ったのに、それがアストラギウス語だと気づいてから、キリコは、シャッコが自分に言っているのだと気づいて、慌てたようにシャッコを見上げ、
 「いや、別に、おれは寒くはない。」
 短く答えて首を振る。
 「唇が青い。」
 強がったわけではないけれど、思ったよりも体は冷えているのかもしれなかった。キリコを見下ろして、シャッコが頬に手を伸ばして来る。シャッコの掌を、キリコの頬はほとんど熱いように感じた。
 ふたりが、黙って見つめ合っているのに、のけ者にされているとでも思ったのか、ユーシャラがキリコへ向かって体をねじり、片手を伸ばして来る。仲間に入れてもらうためにシャッコの真似をして、キリコの頬へ触れようとする。
 キリコはちらりとユーシャラへ視線を流し、ユーシャラがそうしやすいように、半歩分ユーシャラの掌に向かって体の位置を変えた。
 キリコの、空いた方の頬へ、ユーシャラの小さな掌が乗る。指先の赤みは引き始めていたけれど、触れればまだ思わず顔をしかめる程度に冷たい。
 ユーシャラは、満足げにキリコとシャッコを交互に見て、自分が役に立っているのを誇示する。
 シャッコが笑った。キリコもつられて微笑んだ。
 3人が視線を合わせた真ん中で、雪の白さに負けない白さで、吐く息が混ざる。それぞれの唇から、笑い声も一緒に漏れ始めた。
 キリコのそれにはもう少し時間が掛かりそうだったけれど、ユーシャラの唇には血の気が戻り、つやつやと丸いそこへ、陽を照り返した雪の光が集まる。
 夜までには溶けて消えてしまうだろう雪が、今はどこまでも白く輝いていた。
 
 
 雪遊びで体を冷やしたのは、ユーシャラではなくキリコの方だった。
 午後からまた、ユーシャラに付き合ったのが悪かったのかもしれない。気温は上がって、雪は解け始めていたけれど、確かにまだ寒かった。
 ユーシャラが鼻先や指先を真っ赤にして戻って来るたび、シャッコがそうした──キリコがそうさせた──ように、懐ろに抱いて温めて、そうして、キリコの体が冷え過ぎてしまったのかもしれない。
 明け方、悪寒で一度目が覚め、手足が冷たいのに気づいたけれど、それは傍にいるシャッコに抱きついてしのいだ。
 シャッコに、いつもの時間に起こされ、這い出るように起き上がって、ユーシャラの朝食は何とか済ませた後、
 「気分が悪い。」
 ひと言言い捨てた途端、シャッコの手が頬に伸びて来る。
 「顔が赤い。熱があるな。」
 いつもならユーシャラにする仕草で、キリコの頬に触れて額にも触れ、それから額同士を合わせて、それを見ていたユーシャラも、自分がシャッコにそうされる時の口調で、
 「ねつ! きいぃこねつ!」
 シャッコの真似をして、ぺたぺたとキリコの足に触れて来た。
 「ベッドに戻れ。風邪の引き始めだ。」
 シャッコにそう言われて、思わず舌打ちが出る。
 怪我は死ぬほど──文字通りの意味で──したけれど、病気になったことは数えるほどしかない。怪我のせいではなく熱を出したことなど、いつだったかと記憶をたどっても覚えがない。
 これが、例の遺伝子とやらに関係あるのかどうか、丈夫だけが取り柄のキリコは、悪寒に耐えられずに、素直にシャッコの言う通り自分のベッドへ戻ることにした。
 部屋へ向かおうとしたキリコの足に、ユーシャラが素早くしがみつく。
 「キリコ、ねつ?ねつ?」
 恐らく、大丈夫かと、そう訊きたいらしい表情で、ユーシャラがキリコを見上げていた。
 「おまえはいい。」
 クエント語でそう言って、シャッコがユーシャラをキリコから引き剥がした。
 今のうちに早く行けと、シャッコが部屋の方へあごをしゃくる。キリコは何も言わずにうなずいて、まだキリコと一緒に行こうとして、ユーシャラがシャッコに抱かれながら暴れているのをちらりと見てから、ひとりで部屋へ向かった。
 夕べ使わなかった自分のベッドにもぐり込む。
 自分の思う通りにならず、ユーシャラがすねて泣き出した声が、しっかりと閉じた扉の向こうから聞こえた。べったりと泥が詰まったように重い頭に、今日はその声が耳障りに響く。
 悪寒に手足を縮めて、ユーシャラの甲高い声とシャッコの足音を聞きながら、クエントの砂漠で過ごした、あの夜の寒さを思い出していた。砂モグラの脂の焼ける匂いが吐き気を誘った辺りで、キリコはやっと眠りに落ちた。


 肩を軽く揺さぶられて、目を覚ましたのが何時だったのか、時間の感覚はまったくなく、体は温まって、気分は少し楽になっていた。
 「何か食べるか。」
 キリコの額に触れながらシャッコが訊く。キリコは3秒考えてから、首を振った。食欲はない。夢の中で、焼いた砂モグラの肉を差し出されて、現実で実際にそうしたように、食べたくないと断った記憶がある。思い出しただけで、胸の辺りが痛くなる。
 そうか、とうなずいてから、シャッコは大きなアルミのカップをキリコへ差し出した。キリコはのろのろと起き上がり、それを両手で受け取った。
 触れれば冷たいそれは、ただの水に見えたけれど、口に含むとかすかに酸味があった。喉を通りながら、まるで体の中をきれいに洗い流すように、飲み込むと、すっと頭の後ろが軽くなる。熱のせいで喉が渇いていたから、キリコはほとんど一気にコップを空にした。
 濡れた唇を手の甲で拭いながら、空のコップをシャッコに返して、そうしてやっと、ベッドの端から頭を覗かせているユーシャラに気づく。
 泣いてぐずったのをシャッコに叱られたのかどうか、何も言わず、神妙に、そっとキリコを見ていた。
 上目遣いのユーシャラに、キリコはほとんど見えないかすかさで笑い掛け、腕を伸ばして頭を撫でてやった。くすぐったそうに小さな肩をすくめ、ユーシャラが笑い返して来る。
 ユーシャラが許されたのはそこまでで、調子に乗ってベッドに上がろうとする前に、シャッコが素早く横抱きにユーシャラを抱え上げて部屋を出て行く。
 まだ熱が下がっていない自覚はあったから、静かになった途端、キリコはまたベッドに横になった。
 ドアの向こうに、まだユーシャラの気配があって、扉越しに、キリコの様子を窺っているようだった。
 熱のせいの眠気に負けて、もう一度扉の方へ薄く微笑み掛けてから、キリコは目を閉じた。


 額に触れる手があった。大きくはない手だ。柔らかい。額を全部覆うように、掌が乗り、そこからしばらく動かないから、熱を測っているらしいとわかる。
 その掌の丸みに添うように、キリコは思わず喉を伸ばす。
 キリコと、自分の名を呼ぶ声は細く小さく、そして掌の感触と同じほど柔らかい。これは誰の声だろう。夢うつつに記憶を探りながら、知っている誰の声でもないと思って、目を開けて顔を見ようとするのに、目が開かない。
 夢を見ているのだと知っていたから、驚きはしなかった。
 手が動いて、頬に触れる。まぶたに指先がそっと置かれ、喉や鎖骨の辺りや、シャツから覗く素肌のいたるところに、その手指が滑ってゆく。そうやってその手は、キリコの熱を吸い取ってゆく。
 手が動く端から、汗が引き、呼吸が楽になる。
 これは癒すための手なのだと、突然思いついて、それならここはクエントに違いないと、キリコは脈絡もなく思った。
 酒に入れた薬で眠らされた自分に触れた、クエントの女たちの手。憶えてはいない。目覚めた後でシャッコがキリコにそう言った。
 まだ母親の腹の中にいたユーシャラ──その頃は、まだ名などなかった──にも、女たちは同じように掌をかざした。あれはヌルゲラントでのことだ。
 熱を吸い取ってゆく不思議な掌。汗が引き、悪寒が去り、体が次第に軽くなる。まだ眠ったまま、キリコは、その手の行方を感覚だけで追った。
 掌から伝わる、何かとても優しいぬくもり。それは多分、親のような存在が、子のような存在に伝える、情愛のようなもののように思えた。自分は大事にされ、労わられていると感じて、自分にそんな風に触れるのは一体誰の手だと、キリコはまた思う。
 優しさ。キリコ自身の中には極めて希薄な──と、キリコ自身は思っている──、あたたかな感情。誰かの掌から、皮膚を通して伝わる、その感情。様々な人間たちが、様々な機会に、自分に与えてくれたもの。
 優しさとは、与えられれば身内にたまってゆくものだ。たまって溢れて、指先からこぼれ落ちる。そういうものだ。溢れるほど与えられたと思っても、底なしに空っぽのキリコの内側は、与えられても与えられても、ほとんど無自覚にそれを吸い取って、果てしもなく優しさを飲み込んでゆく。
 自分は一体、いつになったら他人に優しさを分け与えられるようになるのだろうかと、キリコは考えた。
 飢えていると自覚もないのに、与えられた優しさはきれいさっぱり吸われて消え去り、キリコの内側は永遠に空っぽのままのように思えた。そこへ吹き込んで来る、淋しいと言う感情。
 自分に触れる掌に向かって、キリコはもう一度喉を伸ばした。
 今はひとりではない。ひとりでここに眠ってはいても、キリコはひとりではない。
 ここはどこかの宇宙の涯(はて)だ。けれど、キリコはここにひとりではない。この手の持ち主が一緒にいる。キリコを癒しているこの掌が、キリコの傍にいる。
 誰だ。またキリコは思った。
 ひとつ思い出す名があるけれど、その人ではないことはわかっていた。彼女ではない。彼女の手は、同じように優しかったけれど、もっと指の細く長い、そしてもっと冷たい掌だった。
 自分に今触れているこの手は、癒しの手だ。キリコはまたそう思った。
 眠りがいっそう深くなる。いつの間にか手は離れてどこかへ行き、自分の体に、重しでもついているように、心地良い闇の中へ全身で沈み込んでゆきながら、やや丸まった体の中心に、確かに何かを抱え込んでいる。あたたかくて柔らかな何か。動物の仔か何かだと思ったのは、それが、抱いている腹の辺りでかすかに動いたからだ。
 それに両腕を巻きつけて、キリコは精一杯優しく抱いた。


 目が覚めると、部屋の中はうっすらと暗く、夕方なのか明け方なのか、どちらだろうと顔を回して部屋の中を見ようとしてから、顔の傍に、小さな体が丸まっているのに気づいた。
 キリコの肩と首筋の間に、無理矢理体を丸めて眠るユーシャラだった。
 自分の体の大きさに自覚がないのかどうか、収まり切るはずもないそこへ、手足ははみ出して、キリコの腕や胸へ乗り掛かっている。
 キリコは、視界を開くために、顔を逆へ向けた。
 すぐに壁際になるそこへ、なぜかそぐわないものが並んでいる。白いマグ、皿、倉庫へ置いてあるはずの工具が何種類か、タオル、ユーシャラ用の木のスプーン、そして、大きさからすると、シャッコのものらしいシャツ。キリコは、腕を伸ばしてそのひとつに触れてみた。
 まるで何かのまじないのように、ひとつびとつ、何の関わりもないものが、無雑作に置かれている。明らかに、ユーシャラがここに運んで来たのだろうけれど、何のためにと、キリコは頭をひねった。
 一度にすべて持って来れたわけがない。シャッコが手伝ったとも思えず、それならわざわざ、これを全部ひとつひとつ、何度にも分けて運んだのか。眠るキリコの傍で遊ぶためにか。
 あるいは。シャッコのシャツに触れながら、キリコはふと思いついた。
 マグと皿はキリコたちが使う用だ。工具はキリコのものだ。木のスプーンとシャッコのシャツは、ユーシャラのお気に入りだ。キリコのものと、ユーシャラの好きなもの。見舞いのつもりかと、思いつけば並んだそれぞれに合点が行った。
 夢の中で感じていたあの手も、きっとユーシャラのものだったのだろう。熱を吸い取るあの手のおかげかどうか、キリコの熱はすっかり下がっている。
 キリコは、ユーシャラの体の下からそっと腕を引き抜いた。
 ゆっくりと起き上がると、それに揃えたようにユーシャラも目を覚ます。まだ半分しか開かない目をしばたたかせて、こちらには背中を向けたまま、顔だけねじ曲げてキリコの方を見る。キリコがもう起きているのに気づくと、途端に大きく目を見開いて、キリコの胸に飛び込んで来た。
 「キリコ!」
 伸び上がって、キリコの頬を両手で包む。そうして、自分がそうされるように、キリコの額に自分の額を合わせて来る。
 「もう大丈夫だ。」
 キリコがそう言う言葉はわからなくても、意味は伝わったらしい。鼻先の触れる近さのまま、ユーシャラが顔いっぱいで笑った。
 ユーシャラの小さな体全部から、優しさが滴り溢れていた。
 ユーシャラに優しさを与えたのはキリコではないけれど、ユーシャラと関りのある誰もが、溢れるように与えた優しさが、今ユーシャラから溢れこぼれている。それを浴びて、キリコは知らずに優しい気持ちになっていた。
 優しさが巡る。与えて、与えられて、優しさはそうして巡ってゆく。
 あるとも知れないキリコのわずかな優しさでも、ユーシャラの小さな体なら、満たすことができるのか。
 どうだろうなと、疑心暗鬼は拭えずに、それでもキリコは、自分に抱きつくユーシャラの体を抱き返した。
 神の子の優しいぬくもりが、熱の引いた体に、ゆっくりと染み透ってゆく。
 ユーシャラの小さな掌が、キリコの頬を撫でていた。

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