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そして続く道 3
時計のない、陽の位置で時間を計る1日が終わり、同じように次の日がやって来て、じめじめと1日中、雨の降る日だった。ATの置いてある倉庫でも雨を避けることはできたけれど、何となく家の中にいたい気分で、シャッコは工具を全部家の中へ運び込み、床に坐り込んで磨くと言う、ほとんど必要のない作業に没頭した。
あぐらをかいた膝の中に、ユーシャラが上がり込み、もぞもぞと小さな尻を落ち着かせて、まるで坐り心地の良い椅子だとでも言うように、短い手足を長々と生意気な仕草で伸ばす。
坐っているのに飽きると、横になってそこに寝そべって、それにも飽きると、そこへ立ち上がってシャッコの胸にしがみつこうとする。シャッコは、ユーシャラには手を貸さず、黙って工具を磨き続けている。
シャッコの膝の上に立ち上がっても、肩へは手が届かず、シャッコの服を掴んでぶら下がるように、何度かシャッコの腹を蹴ったりもしたけれど、そんな小さな素足は、シャッコには痛くもかゆくもない。
シャッコが構ってはくれないのに、ユーシャラはついに諦めたように、膝から降りてひとりでテーブルの下へ這い込んでゆく。4脚ある椅子の間へ頭を突っ込み、そこを抜けてまた次の椅子の下に入ると言う遊びを、これは面白いとひとりできゃっきゃと声を立てて続け、やはりまだ普通に歩くよりは這う方が早いユーシャラは、時々椅子やテーブルの足に頭や膝をぶつけながら、痛がりもせずにその狭い空間を飽きずに這い回っていた。
テーブルの脚をつかんで立ち上がると、さすがにテーブルは高過ぎると悟ったのか、そのまま椅子の脚へ伝い移り、その椅子の上に自力で這い上がろうとする。体を持ち上げる力は足りないし、足の長さは当然足りない。椅子の座面に何とか両手は乗せて、さっきシャッコの膝の上でじたばたとあがいたように、何とか床を蹴って椅子に上がろうとするけれど、もちろんうまくは行かなかった。
シャッコは、磨いている工具越しに、上目にユーシャラがうっかり怪我をしたりしないように一応見張ってはいたけれど、やはり手は出さないし声も掛けなかった。
次の椅子へも同じことをする。果敢に挑戦するのはいいことだ。たとえ無駄であっても。ユーシャラが、結局4脚全部に同じことをし、4脚とも同じ結果に終わって、ついには疲れたのかすねてしまったのか、あるいは単純に飽きただけかもしれない、最後の椅子の下に完全に入り込んで体を丸め、床に寝転んでシャッコに小さな背を向けた。
この間までなら、きっと手足を丸めなくてもその小さな小さな空間に体が全部収まったろう。今は頭の先半分と、胸に引き寄せて折り畳んだ足の、踵から先の部分が全部はみ出し、丸まった背中もそこで窮屈そうだ。シャッコは少しの間作業の手を止めて、ユーシャラの小さな背を眺めていた。
そんな格好をしていると、母親の腹の中でも思い出すのか、いっそう体を縮めて、そうしてやがて、ちゅっちゅと何かを吸う音が聞こえ始めた。親指を口の中に入れているらしい。眠る時には必ずそうするユーシャラの癖だ。
「そこで寝るな。」
少し固い声で言うと、口の中にあったらしい親指がそこから外れたのか、またぎゅっとユーシャラが小さな肩を縮めた。
丸まった背が、どこかの地面に、毛布をかぶって横たわっているキリコを思い出させた。この雨は、今キリコがいるところでも降っているだろうか。雨宿りのできる場所へいるのか、あるいは構わず歩き続けているのか。雨のせいで足止めされているなら、1週間と言った予定は延びるかもしれない。自分の手元に目を凝らして、時々ユーシャラを見やって、シャッコは静かにそんなことを考え続けている。
どこへ行ったのだろう。今どこへいるのだろう。目的の場所へ近づきつつあるのか。それともまだ先は長いのか。何のために、ひとり行き先も告げずに出掛けて行ったのか。考える間に、雨の音が忍び込んで来る。それ以外の静けさも湿っぽく、埃のように床に積もってゆく。それを振り払う術がないまま、シャッコは手を動かし続けている。
雨の中を歩くのは難儀だ。視界が悪くなるし、ぬかるみに足を取られる。あちこちの隙間から滑り込んだ水滴が体温を奪い、湿った服は体を縛る。たまった水が、歩くたびブーツの中でいやな音を立てる。転べば、起き上がるのが億劫になる。けれどそこにとどまっているわけにも行かない。
AT操縦者としての腕を買われていたシャッコは、いわゆる歩兵として戦場を歩き回ったことはほとんどない。雨に濡れ続けた覚えもあまりない。隊の仲間たちが愚痴るのを、何度も何度も耳にしたことがあるのが大半だ。
キリコはどうしているだろうかと、また考えた。
ひとりでいると、1日が長い。ひとりが苦でないのは、それが自分で選んだ孤独である時と、その孤独をいつでも好きな時に破れると決まっている時だ。誰ともになく、シャッコはひとりかすかに肩をすくめた。
突然、がたんと音がして、椅子の下から立ち上がって来たユーシャラが、くるりとシャッコの方へ向き直り、そのままとことことこちらへ向かって来た。シャッコが目の前に並べた工具の上を、踏みつけるのにも構わず真っ直ぐに歩いて来て、そうしてシャッコの膝の中へ倒れ込み、またもぞもぞとそこへ腰を落ち着けようとする。
腹の辺りへ小さな頭をすりつけるのが、まるで自分がここにいると主張しているように思えて、シャッコは思わず手を止めて、ユーシャラの頭を撫でた。
やっとシャッコに構われたのに気を良くしたのか、ユーシャラはそのままシャッコの膝を乗り越え、また床へ頭から滑り下り、そこから後ろへ回って、シャッコの腕や膝を器用に使って背中へよじ登る。シャッコは体を前へ倒し、腕を後ろへ回して、ユーシャラの動きを助けた。
肩と首に小さな腕が回り、爪先がもう一方の肩を蹴る。まるでシャッコの首に自分の体全部を巻きつけるようにして、ユーシャラはシャッコの背中を登り切ると、その登頂を誇るようにシャッコの肩の上に立ち、今度は頭の上にまで上がろうとする。
「シャッコ。」
耳の近くで、子どもの円い声が聞こえる。陰鬱な雨音もくるみ込んで、空気の湿りが軽くなる。
「腹でも減ったか。」
落ちたりしないようにユーシャラの背中の辺りへ手を添えて、シャッコは優しくなる声で訊いた。ユーシャラは頭を振って、シャッコの首にしがみつく。
布と工具を床に置いて、手の汚れを気にしながら、シャッコは両手をユーシャラに触れさせた。
「降りろ。台所に行くぞ。」
微笑んで、自分の後ろに向かって言う。ユーシャラは2秒ほどシャッコに強くしがみついた後で、シャッコの手に従って床にすとんと滑り落ちた。ユーシャラを蹴り飛ばしたりしないように気をつけながらゆっくりと立ち上がって、シャッコは、悪かったと言うようにユーシャラの頭をまた撫でる。
自分のためにコーヒーでも淹れようと思って、足を前に踏み出した途端、ユーシャラが後ろに残ったままの足にしがみついて来る。立ち上がって、ようやくシャッコの膝に届くくらいのユーシャラが、シャッコの足を抱きしめて、上目にシャッコを見ていた。
何かしている時には、足元をうろちょろするなと、それだけは厳しく言ってある。キリコはともかくも、シャッコの身長では足元になど目が届かない。そんなつもりはなくても、足元にいるユーシャラに怪我をさせてしまう恐れがある。今も、いつもそう言うように、目顔で離せと言うのに、ユーシャラは殊更頑固に、必死の表情でシャッコの足にしがみついていた。
今はシャッコとひと時も離れたくないと、そう言っているように思えて、少しの間胸を突かれて、シャッコは今だけ考えを曲げることにした。
「落ちるなよ。今日だけは特別だ。」
キリコがいないからな。胸の中でそう呟いた時、知らずに口元が淋しげに微笑んでいた。
ユーシャラをしがみつかせたまま歩き出す。ユーシャラの重さなど意に介さず、それでもユーシャラが振り落とされたりしないようには気をつけて、シャッコはいつもよりも静かに部屋の中を歩いた。まるで、ベルゼルガの足につかまったキリコのようだと、またそこへ気持ちが飛んでゆく。
雨はまだ降り続いていた。