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そして続く道 - 雷雨

 突然、土砂降りの雨が屋根を叩き始める前に、最初に空がごろごろと不穏な音を立てた。
 小さな窓が、申し訳程度についているだけの家の中を、食事をするテーブルからぐるりと見渡し、キリコは外の様子を窺うように、高い天井を見上げた。
 雷は凄まじい音を立てて、明らかにこちらへ向かって距離を縮めながら、何もかもを洗い流すような雨音の合間に、一度、地面が割れたと思ったほどの音で、雷がどこかに落ちる。
 キリコの視線を追って、不安げに家の中を見回し、天井を見上げていたユーシャラが、明らかに怯えた仕草で肩と両腕を縮め、目を丸く見開いた。
 今日は朝からなぜか機嫌が悪く、シャッコが食べさせようとした朝食をすべて拒否し、そのせいの空腹で不機嫌にいっそう拍車が掛かったのか、ユーシャラはさっきまでテーブルの周りを歩き回りながら椅子をがたがたと揺らしてうるさく音を立て、そして台所にいたシャッコの足元にまとりわりつき──危ないので、離れていろと言われている──、シャッコがそうするより先に、キリコがユーシャラの襟首を暴れるけものの仔にでもするように後ろからつかんで、台所からつまみ出したところだ。
 テーブルに坐らせ、山羊の乳をコップに出してやると、まだ不満そうに唇を尖らせていたけれど、空腹には勝てなかったのか、やっとおとなしく飲み始めた。
 今は上唇にミルクの白い跡をつけて、まだ半分中身の残ったコップのことはすっかり心から飛んでしまったように、激しい雨と雷の音に、全身で怯えている。
 「ここには落ちない。」
 多分、と言う部分は言わずに、キリコはアストラギウス語でユーシャラに言う。言葉の意味はわからなくても、キリコが落ち着かせようとしているのは声音で伝わるのか、一応は正面のキリコへ視線を戻して、けれどその途端、また鳴った雷の方へ視線が動き、瞬きも忘れたように青い目は見開いたままだ。
 そうして、キリコも耳を塞ぎたくなるような大音量の直後に、家が軽く揺れるほどの近さに、雷が落ちた。
 ユーシャラは子どもらしい甲高い悲鳴を上げて、テーブルの上に這い上がり、それを咎めて止めようとキリコが伸ばした腕をすり抜けて、キリコの方へ素早く這い寄って来る。近頃見なくなった四つん這いの姿勢で、あっと言う間にテーブルの上を横切り、必死でキリコにしがみついて来る。
 「おい。」
 相変わらずまだ、普通に走るよりも這う方が早いのだ。
 「大丈夫だ。」
 これは、最近覚えたクエント語で言う。髪を撫でてやってもユーシャラは小さな体を恐怖で震わせたまま、まだ鳴り続けている雷の音のする方へ顔を向け、早くあれを何とかしてくれとでも言うように、涙に濡れた顔でキリコを見上げる。
 テーブルの上に上がったことは後で叱るとして、とりあえずこの場は特例だと、今だけは見逃すことにした。キリコは膝の上にユーシャラをしっかりと抱き取り、そうなれば、ユーシャラはもう遠慮会釈なく声を放って泣き始める。
 キリコにしがみつき、早くあの恐ろしい音が去らないかと、誰かに訴え掛けるように泣き続ける。ごつごつと頭をキリコの肩や首にぶつけて、そうやって不満と不安と恐怖を表現しながら、それでもここで、こうしてキリコに抱かれている限りは自分は安全なのだと、きちんと理解もしている。
 ユーシャラの頭にあごを載せて、キリコは小さくため息をこぼした。
 雷が鳴り始める直前、台所へコーヒーを取りに行くつもりだったのに、これではしばらく椅子から立ち上がることもできない。キリコが動こうとすれば、ユーシャラはきっともっとひどく泣くだろう。
 この間まで、手足は体のおまけ程度の長さだったのに、今はしっかりと存在を増して、それでも抱けばいつも乳くさい、甘い匂いばかりのするまだ幼な子だ。大丈夫だと、またクエント語で言って、キリコはユーシャラの髪を背を撫でた。
 雷の音は容赦なく続いている。巨大なバケツでも引っ繰り返したように、雨粒が、今にも屋根を貫いて来そうな勢いだった。
 そうしてまた、強烈な音が地面を確かに揺らした。音の激しさに、打ち込まれたミサイルの爆発の衝撃を思い出して、一瞬心が戦場へ戻る。
 ここには血の臭いもなければ、銃口の焦げた煤で汚れる指もない。あれはただの雷だ。それを自分に言い聞かせるために、知らずにユーシャラを抱く手に力がこもっていたらしかった。
 キリコの心の揺れを感じ取ったのか、不安に共振したユーシャラが、不意に声を詰まらせて、泣く声を一瞬途切らせた後で、たった今飲んだばかりのミルクをキリコの胸に吐き出す。苦しげに小さな肩と胸を喘がせるのを、キリコは呆気に取られて見守った。
 腹の中にあったのはミルクだけだし、それも大した量ではない。消化すら始まっていなかったそれは吐瀉物とも言えず、ただ奇妙にあたたかく、キリコのシャツの前を全部濡らした。
 熱暴走で勝手に再起動するコンピューターのように、キリコは数拍状況に反応することができず、吐き戻しなど初めてでもない──以前には、毎日毎食毎だった──のに、なぜか呆然とユーシャラの汚れた口元を眺めていた。
 泣き続けてはいるけれど、ミルクと一緒に不安も少しは吐き出したのか、泣き声はやや治まって、ユーシャラは自分が汚したキリコのシャツに構わずまた頭を押しつけ、雷に怯える子どもらしく再びぐずり始める。
 キリコは、汚れて張りつくシャツから心をそらして、ユーシャラをまた抱きしめた。
 土砂降りの音と、轟音の雷と、心の切れ端が、戦場へ引き戻されてゆく。土砂降りの雨の中でさえ、休憩中に煙草を吸うのをやめない連中。先端の火が闇の中で見つかるからと、様々な覆い方をして、あるいは閉じたATのコックピットの中で吸う輩もいた。その後でATの中にこもるあの臭いが、キリコは好きではなかった。
 キデーラは時々ATの中で煙草を吸った。ポタリアがそれを繰り返し注意する。その時だけは肩をすくめて反省したような素振りを見せても、それは数日も続かない。同じことを、皆飽きずに繰り返した。繰り返せたのは、いつも無事に基地に戻って来ていたからだ。
 変わらない日常。殺伐とした殺し合い。それでも、その変わり映えのしない日さえ、今日から続く大切な明日だった。
 ユーシャラはいつの間にか、親指を口の中へ入れていた。キリコは椅子の背に少しだけもたれ掛かり、ユーシャラを寝かしつける時のように、そっと体を前後に揺する。ユーシャラをもう少し近く抱き寄せて、雨と雷の音に耳を澄ませた。
 抱いている小さな体からは、ただ子どもらしい甘い匂いがするだけだ。基地や戦場で嗅ぎ続けた、血や湿った土や植物や、あるいは腐りかけた死体の臭い、そんなものとは程遠く、ユーシャラの体は重さも嵩も増しても、それでも頼りなく、ひたすらやわらかい。
 いつの間にか、雨の音は少しばかりやわらぎ、雷は遠くへ去り始めていた。
 ユーシャラの泣き声が収まったからか、シャッコが台所からこちらへやって来る。その手には、キリコが欲しいと思っていたコーヒーのカップがあった。
 「シャツに吐かれた。」
 自分の目の前に置かれたコーヒーに手を伸ばす前に、ユーシャラの体を少し離して、汚れたシャツの前を見せる。ユーシャラはシャッコの前で少し肩をすくめ、何かまずいことをしたと言う自覚はあるのだと言う表情を、生意気に幼い顔の上に浮かべた。
 「雨の中をそのまま走って来ればいい。」
 シャッコが、外を指差しながら、案外冗談でもなさそうに言う。
 「ユーシャラのシャツも汚れた。こいつも連れて行くのか。」
 キリコがじろりと横目にユーシャラを示すと、不穏な空気を読み取ったのか、ユーシャラは小さな頭を一生懸命振る。
 「・・・やめておけ。」
 「だろうな。」
 着替えとコーヒーと、どっちを先にしようかと考えながら、今日の午後の洗濯の手間にキリコはうんざりする。
 雷が去って、どちらかと言えば自分を甘やかしてくれるシャッコが目の前にいるので気が大きくなったのか、ユーシャラは甘えた仕草で体をねじり、テーブルの上に置いたままの、山羊の乳のコップへ手を伸ばす。ユーシャラの手がそこへ届くはずもなく、
 「まだ飲むのか。」
とシャッコがそれを取り上げて、ユーシャラに手渡してやった。
 うれしそうにユーシャラは汚れた顔中で微笑み、両手に抱えたそのコップを顔の前で振り回し、残りのミルクは全部、今度はシャッコの腹の辺りに掛かった。
 白い滴が、ぽたりぽたり床にも落ち、シャッコはまったく無表情に、新たに汚れた自分のシャツを見降ろして、
 「・・・クエント人が子どもを生みの親だけでは育てないのは、こういう理由(わけ)だからだろうな。」
 どこか上の空に、他人(ひと)事のようにつぶやく。
 時々、ユーシャラを椅子に縛りつけておきたいと思うのは、キリコだけではないらしい。
 養い親としての理性か、あるいは単に常に恬然としたクエント人気質か、シャッコは黙ってユーシャラから空になったコップを取り上げ、代わりに、再び取り上げたコーヒーのカップを、キリコに手渡した。
 「着たままシャワーを浴びるのがいちばん早そうだな。」
 コーヒーを口元に運んで、
 「いい考えだ。」
 軍隊生活を思い出しながらキリコは応えた。
 何もかも大雑把な男所帯の生活の知恵だ。次の洗濯はキリコの番だから、否はない。
 まるでそれが家族のあかしのように、全員同じ山羊の乳の匂いをさせて、朝からの不機嫌はどこへ行ったのか、すっかり機嫌の治ったらしいユーシャラを間に、シャッコはユーシャラの頭を撫で、キリコはユーシャラに薄く笑い掛けた。
 雨はじき止むだろう。午後には、大きさの違うシャツが3枚、いかにも手洗いのぞんざいさで外に干される。その眺めが何となく懐かしくおかしく思えて、キリコはカップの陰でもう一度、ひとりで笑った。

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