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そして続く道 7

 ベッドの中はとっくに冷えていて、それでも、外のような冷気もなく、湿った夜露もない。閉じこもるように、すっぽりともぐり込んだ毛布の中が、ふたり分の呼吸ですぐにあたたかくなる。
 性急さはなく、それでもキリコの膝を割ってシャッコが触れて来て、キリコはシャッコのために、平たく躯を開いた。
 数をこなしたところで慣れるとも思えない、相変わらず背骨の端を割り開かれるような圧迫感に、唇に歯列を食い込ませて耐える。慣れないと言うことが、つまり不快と言うわけではなく、こうやって躯を繋げてひっそりと得られる親密な感覚、傷つけられること──とても、傷つきやすい姿勢だから──を恐れる必要がないと言う、相手に対する信頼、ATも耐圧服もなく誰かと向き合ったことのほとんどないキリコは、親しみにゆえに誰かと抱き合うことに、恐ろしいほど不慣れだ。
 暴力のためでなく、誰かが自分に触れると言うこと。あるいは、親愛のために誰かを抱きしめると言うこと。幼い頃なら、そんな記憶もあるような気がする。気がするだけだ。ほんとうのところはわからない。
 脚が奇妙な形に絡み、躯が揺れるのに合わせて声が漏れるのを、手首に歯を立てて殺した。思ったよりもひどく噛んでいたのか、シャッコの指先が、なだめるようにキリコの歯列をゆるめて、唇の間に指を差し込んで来る。舌をつままれると、唾液が止まらずに、唇の端からこぼれる。
 見下ろされている自分の表情が、どんなものか気に掛ける余裕などなく、首筋や胸元をまだらに赤く染めて、汗か血か、体中の体液の温度が上がって、血管と内臓の内側を駆け巡る。皮膚の裏側に電流でも走るように、シャッコが脇腹や肩に掌を滑らせるたび、キリコはみぞおちの辺りを慄わせた。
 自分の内側を、獣なら服従の形に明け渡していても、そうだと言う自覚もなければ感覚もない。粘膜をこすり上げられながら、自分に躯がどんな風に応えているのか、キリコには知る由もない。揺さぶられて、痛みだけとは名づけ難い感触に、声を放つ恥だけは手放さないように、頭の一点を冴え返らせて、それでも波に揺られるうちに、投げ出した手足のように、何もかもがどうでもよくなる。
 自分の躯の熱さに煮られたように、皮膚にくるまれた感覚だけの生きものになりながら、この瞬間だけ、自分がごく普通の、当たり前の人間なのだと思い知ることができる。何も特別のところはない、与えて与えられて、もっと欲しいと言う感覚に逆らえない、ただの弱い人間。
 シャッコと繋がったまま、不意にキリコは体を起こした。胸を反らして、少しでもシャッコの躯に近づこうと、両腕の中にほとんど無理矢理のようにそのぶ厚い肩を抱き込んで、自分の重みで、繋がる深さが変わったのに、思わず声が立った。
 キリコを抱え上げたまま、シャッコが膝を滑らせて枕元の壁際へ寄った。乱れ切ったベッドの上から、毛布がずり落ちて、かろうじてとどまっている端に、キリコの爪先が触れる。
 壁とシャッコの間に挟まれる形に、キリコはシャッコの首に両腕を巻きつけて、そこからずり落ちないように少しの間必死になった。半開きの唇はシャッコにふさがれて、漏れる声はそこにすべて吸い込まれて消える。
 胸と肩がこすれて、今は汗で滑りながら、触れないように気をつけてはいても、壁にも汗が移る。
 汗の冷える間もないほど、内側で交ざるふたりの体温が高い。
 一度、驚くほど深くまで、シャッコが入り込んで来た。声を耐えるのに間に合わず、自分の腕に噛みついたつもりで、シャッコの鎖骨の辺りに歯列が食い込んでいた。
 痛いとは言わず、シャッコが眉さえ寄せなかったのを上目に見て、食い込んだ歯列を外すのを、キリコはわざと数瞬遅らせた。シャッコの躯が内側で震えたのが、キリコにも伝わった。


 終わればすぐに眠気がやって来るかと思っていたのに、元々眠りの浅いシャッコに引きずられたように、キリコの頭の中はきれいに醒めて、野宿と歩き詰めの疲れは、今は洗い流したように消えていた。
 床に落ちた毛布を拾い上げて、そこに一緒にくるまって、まだ眠る気にならず、ぐずぐずとシャッコの胸に後ろ頭をこすりつけている。
 言葉の足りないキリコには、躯を繋げることで易々と伝わってしまうものの存在は有難かったけれど、その代わりに、いつも抱き合った後に感じる、それでも伝え切れなかった、中途半端に伝わってしまった故に気づいてしまった、伝え残しの存在のもどかしさに、考えていればそれが何かわかるのではないかと、覗きたくもない自分の内側を探る羽目になる。
 どこをどう覗き込もうと、行き着くのはフィアナだ。その通り道にユーシャラが在ろうと、キリコの心の目が向かうのはフィアナしかいなかったし、常に彼女の存在を感じていたいのだと思うと同時に、感じることは確実に苦痛でもあった。
 苦痛を感じることが、つまりはフィアナを感じることだった。苦痛なしに、キリコの胸の内にフィアナは存在できず、常に血を流し続けている胸に開いた穴のような、そよ風が通り過ぎてさえ激痛を呼ぶその傷口が、キリコにとってはフィアナの存在そのものだった。
 傷が痛む。痛みは恐ろしい。そして、その痛みが失くなることはもっと恐ろしい。恐ろしい苦痛であっても、それがフィアナなら、キリコにとってはかけがえのない、愛しいものだった。
 キリコの物思いをまるで励ますように、シャッコがキリコの髪を撫で続けていた。大きな掌が、子どもをあやすように、キリコの髪を梳いて、こめかみの辺りを指先でなぞる。それに応えるように、長い瞬きを、キリコはゆっくりと繰り返した。
 「おれはまたいつか、カプセルを見に行く。」
 喉を伸ばして、暗い天井へ目を凝らした後、シャッコの胸に背中を預け直して、キリコは静かにつぶやいた。有無を言わせない響きを込めて、目の前の薄闇に向かって目を細めた。
 シャッコの掌の動きは止まらず、
 「ああ、そうすればいい。」
 頭の上に降り掛かる声は、低く穏やかで、さっきまでの熱さがまるで嘘のように、底に沈んでいるのはただの優しさだけだった。
 シャッコに何も含むところがないとわかり切っているのに、その声音が後ろめたいのは、キリコ自身のせいだ。キリコは無意識に、胸の前で腕を組んでいた。
 キリコの心の動きを読み取ったのか、シャッコが苦笑をこぼした気配が、触れている胸から伝わって来る。シャッコの指は、相変わらずキリコの髪に触れたままだった。
 「どこへ行こうと、おまえは必ずここに帰って来る。おまえはユーシャラを捨てたりはしない。」
 淡々と、書かれた文章でも読み上げるようにシャッコが言った。キリコは何も言わず、その無言が肯定を示していたけれど、キリコ自身はどこか半信半疑のままだった。どうだろうなと、自分の胸の中でだけつぶやきながら、それでも、シャッコが正しいのだと知っている。それを認める心の準備が、まだできていないだけだ。
 シャッコの言う通りだろう。ユーシャラを残して、フィアナのカプセルを見にゆく。カプセルの軌道を追って、空を見上げて、そうして来た道を戻ってゆく。ユーシャラの許へ、帰ってゆく。まるで、キリコの帰る場所になるためにこの世に生まれて来たのだとでも言うように、ユーシャラはキリコを待ち続け、シャッコも、ユーシャラと一緒にキリコを待ち続ける。
 ユーシャラの存在に、まだ馴染み切れず、受け入れながらも自分に近寄せるにはまだ覚悟が足りず、それはいつか変わるのだろうかと、キリコは信じ切れずにその時を待っている。
 
 
 睡魔を引き寄せようと、泡のように浮いては消える思考を頭の隅に追いやって、自分を抱いているシャッコの腕を外すタイミングを計っていると、短い廊下から、かすかに子どもの声が流れ込んで来た。
 ユーシャラだと思った瞬間に体が動いていて、毛布を跳ね上げるようにしてベッドから降りると、キリコは振り向きもせずそのまま足早に部屋を出た。
 声はすぐに途切れ、それは泣き声ではなく、夢のせいの寝言か何かのようだった。それでも、ユーシャラの様子を確かめようとドアまで歩いてから、自分が裸のままなのに気づく。キリコは素足の足元へ視線を落として、さすがにこのままユーシャラの部屋に入る気にはならず、かと言って着替えを取りに元の部屋へ取って返すのも少々業腹──自分の間違いを認めるのは、いつだって面倒だ──で、逡巡の後、ふと思い出して、後ろのバスルームへ体の向きを変えた。
 脱ぎ捨てた耐圧服の傍に、シャッコが脱いだシャツが、床に小さな山を作っている。闇の中に白く輪郭がにじんで、まあいいと思いながら、それを指先で拾い上げた。
 シャッコの掌の感触がまだ残る自分の裸を、ユーシャラに見せる気にならず、そうしてシャッコのシャツに首を差し入れながら、二重にまとわりついて来る自分のもの以外の匂いに、どちらがましだったかと、袖を通す腕の動きを一瞬止めかけた。
 広い襟ぐりで、肩も胸元もほとんど隠れない。膝近くまで届く裾が、動くと皮膚にすれて、シャッコの気配を濃厚に体にまとう羽目になって、ユーシャラの寝顔を確かめに行くために養い親の顔を作るのに、少しばかり手間が掛かる。
 まあいい。もう一度、口の中でつぶやいた。
 そっとドアを開け、廊下よりもさらに暗い部屋の中に、爪先を滑らせて入り込んでゆく。部屋の片隅に置かれた小さなベッドの中に、両手に収まりそうに丸まった、ユーシャラの背中が見えた。
 目を覚ましたわけではなかったようだ。こんな子どもでも、嫌な夢を見るのだろうかと、考えながらベッドの傍へ寄り、落ちないために囲った華奢な柵に手を掛ける。上からユーシャラを覗き込み、キリコは体を追って、もう少しユーシャラに顔を近づけた。
 親指は口の中だ。丸い頬、穏やかに閉じた目、出会った時には、キリコの両手に収まってしまう小ささだった。今は両腕でしっかり抱いても持ち重りがする。シャッコほど丈高く育つかどうかはわからないけれど、キリコに追いつくのは一体いつだろうか。
 今は自分の膝にしがみつくのが精一杯の小さな体が、じきに自分を追い越して、その頃にはキリコの名をきちんと呼べるようになっているはずだ。クエントの言葉を操り、キリコとも普通に会話をして、見知らぬ故郷のヌルゲラントを恋しがるユーシャラの、成長した姿はまだうまく像を結ばない。結べるはずもない。
 キリコは、ユーシャラの丸まった背中に、そっと掌を当てた。
 寝息にかすかに動き、子どもの体はいつも熱い。キリコが戻ったことをまだ知らずに、眠っている。
 起こさないようにそっと手を離してから、抱き上げようかと最後まで迷って、キリコはそのままユーシャラの部屋を後にした。
 もう寝ているのではないかと思ったのに、キリコが出て行った時のままで、シャッコはキリコを待っていた。
 キリコが自分のシャツを着て戻って来たのに、意外そうな表情を浮かべた後でおかしそうに短く笑い、キリコはそれに応えてむっつりと、自分のベッドへ入ろうとした。
 「おい。」
 片膝を乗り上げたところで、背中にシャッコの声が掛かる。
 シャツを返せとでも言うつもりかと、肩越しに顔だけでキリコが振り向くと、シャッコが自分の隣りを掌で叩いて見せた。
 「こっちで寝ろ。」
 思いの他静かな、それ以上でもそれ以下でもない声音だったから、それにあえて抗う理由も思いつけず、考える振りをしたのは、ただの照れ隠しだったのかもしれない。
 それを迷いと取ったのか、シャッコは腕を伸ばして手招きした。
 「来い。」
 何か言い返そうと思ったのに、言葉が見つからず、キリコはいつものように無言のまま、自分へ向かって伸ばされたシャッコの腕に促されて、自分のベッドに背を向けた。
 キリコの分の場所を空けるために、シャッコはあちらを向いてキリコに背を見せる。眠っていたユーシャラの丸まった小さな背を思い浮かべて、似たところなどあるはずもない背中がふたつ、なぜか目の前でぴったりと重なる。毛布の中に体をもぐり込ませながら、キリコはシャッコの背に添うように体を寄せた。
 肩口に額を当て、ふたりで一緒に流した汗の匂いに目を細める。大きな背中に自分の胸をぴったりと合わせて、やがてシャッコの手が伸びて来て、キリコの左腕を取り、自分の腹の方へ引き寄せた。手の甲にぶ厚い掌が乗り、子どもをあやしでもするようにやわらかく撫でた後で、肘近くまで滑り上がると、逃がしたくないのかどうか、そのまましっかりとつかまれてしまった。
 キリコは、シャッコに倣って、自分もシャッコの手首の辺りをつかんで、それはまるで、命綱のように、そう言えば、互いを助ける時にはこんな風にしっかりと手を繋ぐのだと思い出す。離さないように、離れないように、互いの命を互いの掌の中に握り締めて、自分が死にたくはない以上に、相手を死なせたくもない。たとえ最期の時に、生き残っているのがどちらかひとりきりなのだとしても、それまでは孤(ひと)りではありたくない。死ぬ時はどうせ一緒にだと、決め込んでいたこともあったと、キリコは思い出して苦笑いをこぼしていた。
 他人の体が傍にあっては、余計に寝つけない性質(たち)なのに、それをシャッコも知っているはずだけれど、今夜はなぜかこの近しさが、眠りよりも必要な気がした。
 帰って来たのだと、思った。戻って来たのではなく、帰って来たのだ。
 帰る場所のなかったキリコは、帰る場所を与えられて、それにまだ戸惑ったままでいる。根無し草の暮らしが懐かしいわけではなく、さまよい続ける生活に戻りたいわけではなく、ただ、足を止めた自分に馴染みがなく、成長してゆくユーシャラの傍らで、自分がここにとどまるのだと言うことが、いまだ信じ切れないのは、それはキリコ自身の弱さだった。
 シャッコは、そのキリコの弱さを目の前に置いて、咎めるでもなく落胆するでもなく、ユーシャラを育てると言う面倒を押し付けられてさえ、キリコに見せるのはせいぜいが苦笑いだ。
 なぜだと、胸の中でだけ問いながら、キリコはその答えをすでに知っている。
 シャツ越しに、背中から熱が伝わって来る。それに全身をあたためられて、いつの間にか、ユーシャラの眠る姿勢そっくりになっていることにキリコは気づかない。
 シャッコに腕を取られたまま、首筋の辺りに額を寄せていて、心臓の音に気づき、キリコはそれに耳を澄ませた。
 この音は、明日も同じように聞こえるだろう。明後日も、その次の日も、ユーシャラがすっかりキリコの背を追い越してしまっても、同じようにキリコの耳に届くだろう。
 そうであってくれと、そう思った自分に、キリコは静かに驚いていた。
 腹の底まで届きそうに、深く息を吸って、邪魔かと気にしながら、シャッコの背中に向かって口を開く。
 「・・・冬が過ぎたら、木を植えよう。」
 「木?」
 まだ眠りは遠いのか、目覚めたままの声が、すぐに応えて来る。
 「ああ、木だ。」
 葉を繁らせた、立ち上がったATよりも背の高い木を想像しながら、キリコはそこでうなずいていた。
 「・・・ああ。」
 低い、どこか笑いを含んだ声が、骨を伝わってキリコに届く。シャッコの掌が、またキリコの腕を撫でた。
 もう一度、改めてシャッコの背中に添い直して、キリコは今度こそ目を閉じた。それ以上はもう何も言わず、耳の奥をシャッコの心臓の音で満たしながら、その音に向かって、おやすみとかただいまとか、そんな風な言葉を掛けたような気がした頃、キリコはようやく眠りに落ちていた。
 また3人の、いつもの朝が、もうそこまで近づいていた。

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