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そして続く道 - 吾子

 外に出れば陽射しがひどく強く、けれど日陰に入れば適当に風が気持ち良く吹いて来る、ATの整備には持って来いの日だった。
 スコープドッグとベルゼルガを交代で走らせ、近頃では、こうして機体の状態を確かめるためにしか搭乗しないけれど、それでも狭苦しいコックピットに入れば、奇妙に心が落ち着く。
 砂煙を立ててスコープドッグを走らせて、ターンピックのブレーキの効きが少し甘いのを頭の隅にメモして、キリコはふとこのまま真っ直ぐ走り続けたいような気分になりながら、いずれ町へたどり着く砂漠の端で、一時ATを停めた。
 バイザーを開き、いい天気だとつぶやいて、くるりと向きを変える。後は振り向かず、また真っ直ぐ家まで戻った。
 キリコのATが見え始めると、ユーシャラが走って近寄って来る。万が一、轢いたり踏み潰したりしないように、さっさとスピードをゆるめ、追いついたシャッコがユーシャラを抱き上げるのを待つ。
 降着のポーズを取った時に、軋みの音が大きい気がしたのも、憶えておこうと、コックピットを出ながらキリコは思った。
 「どうだ。」
 降りて来たキリコに、ユーシャラを手渡しながらシャッコが訊く。
 「ターンピックの点検だけだな。別にこのままでも問題ないが、一応だ。」
 「ポリマーリンゲル液はどうする? 入れ替えるか。」
 「まだいい。ここの気候なら劣化は少ないはずだ。」
 暑過ぎることもなく寒過ぎることもない、人が暮らすには最適な気候では、PR液の劣化も、人への影響と同じにゆるやかだ。
 ふたりの会話に割り込もうと、ユーシャラが必死でキリコの腕の中で伸び上がり、つたないクエント語で何やら言うけれど、キリコにそれはほとんど伝わらず、頼みの綱のシャッコも、こんな時にはユーシャラをあまり甘やかさない。
 次にはシャッコがベルゼルガに乗り込み、キリコとは違う方向へ走り去ってゆく。
 ふたりがATに乗るところは何度か見ていても、シャッコの姿が見えないことにあまり慣れていないユーシャラは、そうやってベルゼルガが走り去ってしまうと、途端にキリコの腕の中で大暴れして、その後をよたよたと追おうとした。
 思ったよりも長い距離を、比較的しっかりした足取りで走った後、大方そうなるとキリコが予想した通り、派手に転んで泣き出す。ベルゼルガが走った跡に倒れて、甲高い声で泣くユーシャラの傍へ、キリコはゆっくりと足を運んだ。
 足元に、寝転がったままのユーシャラを見下ろして、キリコはしばらくそのまま動かない。ユーシャラに手を伸ばすでもなく、しゃがみ込むでもなく、倒れたまま泣き続けるユーシャラを見て、そしてシャッコが走り去った方角を見やった。
 ユーシャラは、とうとう諦めたのか、少しずつ泣き声を治め、ひとりで立ち上がる。そして、涙と泥で汚れた顔を小さな手の甲で拭って──汚れが広がっただけだった──、まだ小さくしゃくり上げながら、キリコの足にしがみついた。
 「シャッコ・・・。」
 キリコのズボンに顔を押しつけ、くぐもった声で言うのに、さすがにキリコも少しばかり心を打たれて、やっと腕を伸ばして頭を撫でてやる。
 「すぐに戻って来る。試しに走りに行っただけだ。」
 アストラギウス語でそう言っても、一体どれだけ伝わるのか、ユーシャラは納得している様子ではなく、ぎゅっとキリコの足を両腕で抱きしめた。
 「キリコ。」
 「おれもシャッコもどこにも行かない。おまえを置いては行かない。」
 伝わらないのを承知で、伝わらないからこそ、普段は滅多に使わない少しばかり親身な口調で、キリコは言った。
 シャッコはまだ戻って来ない。ふたりで、シャッコのベルゼルガが走り去った方を、目を細めて眺めていた。


 動くATを滅多と見ないせいか、ベルゼルガが正面を向いてこちらに勢い良く戻って来るのを見たユーシャラは、シャッコが戻って来たことを喜ぶよりも、AT──キリコのスコープドッグよりも大きい──が巨大な化け物にでも見えるのか、キリコに抱かれてまた派手に泣き出し、ベルゼルガから降りて来たシャッコに、キリコはほとんど投げるように、泣くユーシャラを手渡した。
 シャッコがユーシャラをあやすのにさっさと背を向け、スコープドッグの足回りの点検を始める。
 シャッコはしばらくキリコやATの傍から離れ、怯えるユーシャラを抱いて辛抱強くなだめ、それでも泣き止まないユーシャラを、家の中へ連れて行って山羊の乳で懐柔し、十数分後には、口の周りを白く汚したユーシャラが、けろりと家の中からひとり先に走り出て来る。
 ATの傍にはあまり近寄らないようにもう一度言い含めて、シャッコは、ベルゼルガのパイルバンカーの点検を始めた。
 左右に並んだATに、それぞれの作業に没頭して、ユーシャラはその間、ひとりで庭を駆け回って遊んでいる。時々、シャッコの傍へそろそろと近づいては、叱られないと分かると、腰の辺りに飛びつこうとする。
 一度、シャッコはユーシャラを抱き上げて、コックピットの中へ入れた。中へ入ると、ユーシャラの姿は完全に隠れ、座面に沈んでどこにいるのか分からなくなる。操縦桿やスイッチや計器の類いが面白いのか、あちこち触って歓声を上げていた。
 「ふたり乗りにしようと思えば、できないことはないな。」
 スコープドッグの足元にいるキリコに、シャッコが声を投げた。
 「ATに乗せるのはまだ早い。」
 そちらを見もせずにキリコが応えると、
 「まだ、か?」
 「まだだ。」
 シャッコは、キリコに向かって、見ていないのを承知で肩をすくめた。
 「赤ん坊の時に乗ったのを、覚えているか?」
 はしゃぐユーシャラに向かってクエント語で訊くと、ユーシャラはきょとんとシャッコを眺めて、大きく首を振った。
 「覚えてないそうだ。」
 「覚えてなくていい。」
 おかしそうにシャッコが言うのに、語尾を切り捨てるように言葉をかぶせて、キリコは相変わらず自分の手元の作業に夢中だ。
 そのうち、シャッコもコックピットの中に入り、ユーシャラを膝に乗せて、クエント語で、計器やスイッチの説明を始める。
 ユーシャラもシャッコも楽しそうに、キリコはそれを一度だけ見上げて、まだ早い、と誰にも聞こえないようにひとりつぶやいて、手にしていた工具をじっと見下ろした。


 もう一度、今度はゆっくりとスコープドッグを走らせ、ターンピックの反応が悪くないことを確認して、キリコはそれで作業を終えた。
 その間、ベルゼルガはほとんど触れられないまま、日向と日陰を行き来して、シャッコはずっと走り回るユーシャラに付き合っていた。
 夕食の準備にはまだ少し間がある。キリコはやっと休憩のつもりで、ATの影に入る位置で、倉庫の入り口へ腰を下ろした。
 シャッコはちょうど自分の分の工具を片付け終わり、キリコの休憩に付き合うつもりか、そのまま傍にやって来る。同じように腰を下ろした後で、何を思ったかくるりと体の向きを変え、キリコの膝に頭を乗せる。倉庫の中へ向かって、丈の高い体を長々と伸ばし、さすがにユーシャラの子守りに疲れた風に、そこで大きく息を吐いた。
 「ATを走らせる方が楽だな。」
 「・・・ああ。」
 当のユーシャラは、まだ元気に倉庫の中を走り回り、今はスコープドッグの足元へ駆け寄って、何を見つけたのか地面にしゃがみ込んでいる。ユーシャラが怪我をしたりしないように、キリコは一応そちらへ視線を流し、そして顔の位置はそのままで、手探りでそっとシャッコの髪に触れた。
 キリコの掌に添うように、シャッコが喉を伸ばす。昔よりもずっと長くなったシャッコの髪の中へ指先を浅くもぐらせ、梳くように髪を撫でると、シャッコの瞬きの間隔が、見る見るうちに遠くなる。
 ユーシャラは、スコープドッグの足元からまだ動かない。
 「おまえは、ユーシャラをATに乗せたいのか。」
 ユーシャラから視線を外し、シャッコを見下ろして、キリコは訊いた。
 「おまえはそうじゃないのか。」
 シャッコが問い返す。
 キリコは黙り込んで、答えを探すために、またユーシャラの方へ視線を移した。
 「さあな。必要がないなら、わざわざ乗ることはない。」
 ボトムズ乗りと、いまだ蔑まれる自分たちのことを考えながら、ふっとキリコの声が遠くなる。
 シャッコは目を閉じて、まるでキリコではなく、空(くう)に向かってのように、
 「いずれ必要になる。」
と、きっぱりと言い切った。
 反駁するようではなく、ただ疑問を解消するために、キリコはその続きを引き取った。
 「なぜそう思う? それもクエントの神が言ったことか。」
 シャッコは、自分の髪に触れているキリコの手に自分の掌を重ねて、指のつけ根を軽く握った。自分の方へ引き寄せるようにしながら、
 「ユーシャラはおれたちの子だ。」
 それが何もかもを説明しているとでも言うように、低く静かに言ったきり、シャッコは無言になった。また目を閉じて、そしてキリコの手は離さず、枕にしているキリコの膝に、もっと頭の重みを預けた。
 このまま眠ってしまうつもりかと、キリコがシャッコの顔を覗き込もうとした時、ユーシャラが突然駆け寄って来て、シャッコの腹に飛びついた。シャッコは咄嗟に片腕でユーシャラを受け止め、ユーシャラがそのまま自分の腹の上によじ上って来るのを助けて、キリコの手は離さないまま、片腕はユーシャラを抱く。
 ユーシャラはシャッコの胸の上に平たくうつ伏せになると、昼寝の姿勢になって、早速親指を口の中に差し入れる。よく見れば、片手に、さっきまでキリコが使っていたスパナを抱えていた。細身で重さはないけれど、長さはユーシャラの背丈の半分以上ある。まるで人形か何かのようにそれを抱いて、ユーシャラはもう、シャッコをベッドの代わりにして眠り始めていた。
 ユーシャラの小さな背中に大きな掌を添えて、シャッコもまた目を閉じる。
 似たところのないふたりは、けれどそうして寝顔を並べれば、なぜかどこか似通って見える。それを見て、思わずふっと笑みがこぼれた。
 シャッコに片手を預けたまま、キリコはスコープドッグの肩の辺りからわずかに差す陽射しを斜めに見上げて、それに目を細めてから、
 「ああそうだな、ユーシャラはおれとおまえの子だ。」
 スコープドッグの背中に向かってつぶやく。
 並んだATの影が、長さを増して倉庫の内側へ入り込み始めていた。
 
 
 午後中、シャッコと追いかけっこでさすがに疲れたのか、ユーシャラは夕食のテーブルで船を漕ぎ始め、無理矢理に食事は終わらせた後、風呂もそこそこにベッドに入れられた。
 浅く湯を張った浴槽の中でも、ほとんど目を開けていられず、髪だけは何とか乾かしたところで、キリコはそれ以上は諦めてユーシャラをさっさとベッドへ運ぶ。眠ってしまうと重くなる体を小さなベッド──近頃、めっきりこれも狭くなった──に横たえて、手足を上げたり体を裏返したりしても、もう目を覚ます様子もない。
 今夜は抱いてあやして寝かしつける必要もないまま、ユーシャラに付き合ったせいで濡れてしまったシャツを着替えるついでに、軽くシャワーを浴びてしまい、ユーシャラがいなければ他にすることもない珍しく長い夜を、どうしようかと髪を拭きながら考える。
 こんな風に疲れ切ってくれれば、毎晩楽でいいと思いながら、しかし自分がそれに付き合う気はないキリコは、さすがにそこまでシャッコにやらせるのは心が少し痛んで、交代での寝かしつけと、夜泣きの相手くらいは文句を言うまいと、バスルームを出ながら自分を戒めた。
 食卓の上はすでにきれいに片付いていて、台所で物音もしない。玄関から入れば、普通の家なら居間兼食堂に当たる比較的広いスペース以外は、その右手の台所と奥にあるふた部屋以外、人がいられる場所もないのに、シャッコの気配がなかった。
 一応は、コーヒーを探すつもりで台所を覗き、まだ乾かない食器類がきれいな敷布の上に広げられていても、やはり思った通りシャッコの姿はそこにはなく、コーヒーの香りもないことに軽く失望して、家の中にいないなら外しかないと、キリコはそのまま外へ出た。
 真っ暗なAT用の倉庫の入り口から、わずかに漏れる明かりを見つけて、キリコはそちらへ近づいて行った。
 いちばん近い人家へも、とても歩いて行ける距離ではないから、用心する必要もないATのための倉庫の扉は常に開け放ってある。ここから盗まれそうなものと言えば、PR液と工具の類いくらいだけれど、ATを持っていなければ、盗んだところでどれも宝の持ち腐れだ。家の方には扉に閂があるのは、ユーシャラがいるからだ。キリコとシャッコのふたりきりなら、恐らくきちんと部屋に仕切られた家すら持たなかったろう。
 幼い頃を除けば、キリコが寝たいちばんまともなベッドは、レッドショルダーの訓練基地にいた時に与えられていた部屋だ。牢獄と大した違いもなかったと、今になれば分かる。
 今、主にはシャッコが組み立てた小さなベッドで、監視カメラもなく、外から鍵の掛かったドアもなく、ただすやすやと眠っているユーシャラのことを思い、ユーシャラを自分のようにはしたくないのだと、キリコは改めて気づいていた。
 ATにはいずれ乗せるだろう。けれどそれは、わざわざ戦争に出向くためではなく、必要な時に自分を守れるように、ただそれだけだ。
 なるようにしかならない。暗闇を歩きながら、自分の足元へ向かって、声に出してつぶやいていた。
 さらに暗い倉庫の中へ目を凝らすと、壁際近くに降着ポーズで並んだATの輪郭が、淡く小さい光ににじんでいる。ベルゼルガのコックピットの中をしきりに覗き込んでいるシャッコが見え、
 「どうした。」
 キリコはそこからひとまず声を掛けた。
 「レンチがひとつ足りない。ユーシャラがどこかへやったらしい。」
 振り返って、キリコを見下ろして、シャッコが少しばかり困ったような声で答えた。
 そう言えば、キリコのスパナを抱いて寝入ってしまい、取り上げるのに苦労したのだと思い出す。いや、と、最近それだけははっきりと意思表示するようになった。首を振って、スパナを抱きしめて、取り上げようとすると一人前にひどく怒った顔をして、キリコも一瞬ひるんで手を止める。玩具など特には与えられていないから、遊び道具と思えば愛着が湧くのかもしれない。それでも、工具を与えっ放しにしておくわけには行かず、結局はシャッコがユーシャラからそれを取り上げた。
 シャッコのレンチを隠したのは、その前なのか後だったのか。子どもと言うのは、妙なものに執着するものだ。
 「倉庫のものには触るなと、言った方が良さそうだな。」
 下からシャッコを見上げて言う。
 「言葉が通じるならな。」
 コックピットの中を小さなライトで照らして、そこに腕を伸ばしながらシャッコが言う。声に、珍しく苛立ちのようなものがひと色あって、それを聞き取ったキリコは、薄く苦笑した。
 ここへ持って来た武器の類いは、さすがにユーシャラの目にさえ触れさせず、シャッコでなければ手の届かない高い棚の奥へ隠してある。銃弾類は、キリコの耐圧服やヘルメットと一緒に仕舞われていた。それらもいずれは、ATの操縦同様、玩具と勘違いする前にきちんと使い方を教えるべきなのだろう。正しい使い方を知らなければ怪我をする。間違った使い方を覚えられても困る。
 結局は、シャッコが言った通り、いずれ必要になるのだろう。ユーシャラは確かにおれたちの子だと、キリコは思った。
 「キリコ、手を貸してくれ。」
 シャッコが上から突然言った。
 「何だ。」
 上がって来いと手招きされるのに、もうベルゼルガの前面へ足を掛けながら、キリコはシャッコが伸ばして来た手を取った。
 「左側の奥だ、おれの手では入らない。」
 シャッコが右に寄り、キリコへコックピットの中へ入るように促す。乗り上がり、キリコはシートの中へ転げ込むように、スコープドッグのそれに比べれば格段に広いそこで、むやみに泳ぐ手足をきちんと引き寄せるのに数瞬掛かった。
 「どこだ。」
 シートの中へ体を収めて、操縦桿には当然触らず、
 「そこだ。」
と、シャッコが明かりと手を動かして示す方向へ、体をねじった。
 シートの左側──キリコからは右側──の後ろの、細いパイプが数本通ったいちばん下のわずかな隙間に、確かに小さな工具の姿が見える。
 確かにこの中では、シャッコではシートに坐る以外の動きは無理そうだった。キリコはシートの右側へ体をもぐり込ませ、その隙間に向かって腕を伸ばし、揃えた指先を全部そこへ滑り込ませた。
 中指の先にレンチの先端が触れ、引っ掛けるように何とか引き寄せようとするけれど、すぐには事はうまく運ばない。シャッコが、よく見えるようにとライトの位置と角度をあれこれ模索して、けれどほとんど光は遮られて用を為さない。キリコは手探りで、レンチを逃さないように用心しながら、必死で指先を伸ばし続けた。
 思ったより長い数分、格闘の末に、レンチは隙間からコックピットの床へ滑り出て来る。
 「取れた。」
 しっかりと握り締めてから、シートの方へ体の向きを直し、コックピットの中で落としてしまう前に、シャッコにそれを手渡した。
 シャッコは、キリコから受け取ったそれをズボンの腿辺りにあるポケットに入れてきちんとかぶせを閉め、それから、持っていたライトをコックピットの床に置き、下へ降りる代わりにコックピットの中へ入り込んで来る。
 「おい。」
 自分が出るまで待てと、思わずキリコは尖った声を出した。
 キリコの声は聞こえなかったように、シャッコはシートへ腰を下ろすと、自分の膝の上に無理矢理キリコを引きずり上げた。
 スコープドッグよりはややスペースはあっても、規格外のシャッコが入れば同じことだ。キリコが一緒に収まるには相当の無理がある。それでもシャッコはキリコを抱き寄せたまま放さずに、挙句コックピットをそのまま閉めてしまった。
 「おい!」
 閉じ込められたコックピットの内側で、キリコの声がいっそう尖る。それにかぶせて、シャッコは面白そうに低く笑った。
 シャッコの方へ体を寄せなければ、あちこちぶつけずにはいられなかったから、キリコは仕方なく暴れるのをやめて、シャッコの腕の中でおとなしくなった。自分がユーシャラを抱いた時と同じだと、頭の隅で思いながら、ゆるく腹の回りにまとわりつくシャツの裾から入り込んで来るシャッコの手を、もう止めるのも諦めてしまった。
 「ユーシャラは?」
 今さらのようにシャッコが、キリコの耳に唇を当てて訊く。
 腕をねじりながら伸ばし、シャッコの頭を自分の肩へ引き寄せながら、
 「もう寝た。」
 短く答えた後に、唇が重なった。
 両腕ごと抱きすくめられて、もがく気も失せたキリコは、膝を撫でられて素直に脚を開く。滑り落ちる広ささえない床のどこかを爪先が蹴り、そこから戻る時に、さっきシャッコが置いたライトも蹴った。どこかへ当たってから後ろの方へ転がったライトは、そこからまだゆるくコックピット内を照らしている。はっきりと互いの見えるほの明るさに、キリコは思わず目を伏せた。
 膝から下を、シャッコの脛に絡めるようにして体を支えて、上体が前に倒れると、真っ直ぐのままの操縦桿がみぞおちに当たる。
 ほとんど手足も動かせない狭さで、窮屈に躯を触れ合わせ、時々伸ばした指先に計器類が触れると、キリコはそれの存在に安堵すら憶えた。馴染み切ったATの中で、シャッコと抱き合っている。自分の身体(からだ)に確かに融和している、ふたつのもの。
 自分の呼吸の激しさに煽られながら、自分のそれに触れるシャッコの掌に、自分の手を重ねた。一緒に触れるためではなく、そこからシャッコの手を外させ、ろくに腕も伸ばせない狭さの中で、キリコは何とか自分の体の向きを変えると、シャッコと対面する形に自分の位置を変える。
 そうして、さっきまで自分の腰に触れていたシャッコのそれに両手を伸ばし、直かに触れて、両掌の中に包み込んだ。
 どう触れようと、両掌にも余る。ここでもう少し自由に動ければ、別のやり方もあるけれど、今はこれ以上は無理だった。
 シャッコの腿の厚み分、キリコの方が目線が高くなる。珍しくシャッコをわずかに見下ろす形に、キリコは思わず唇を湿して、もっと近く躯を寄せた。
 片手ずつ、互いに差し出して、一緒に触れる。キリコはシートの背ごとシャッコを抱くように、シャッコはキリコの腰にもう一方の腕を巻いて、肩に乗せたあごは、どちらも、互いを引き寄せるように力がこもっていた。
 息が一緒に湿る。同じように手を動かしながら、こすりつけるように躯を動かしているのは、上にいるキリコの方だった。ATの中にいると言う、不思議な安堵のせいなのかどうか、反応が違うのが自分でわかる。外へは漏れない息が、次第に荒くなっていた。かすかに、ベルゼルガも、キリコに合わせて揺れている。
 キリコの熱をそそのかすように、シャッコの掌も動く。舌先を絡める音もいつもより派手に、耳朶に食い込む歯列も、いつもより少しだけきつく、それでもキリコが果てるのを引き伸ばしているのは、シャッコの動きの方だった。
 ぬるりと、熱を塗り込められて、掌に包まれて、こすり上げるよりもむしろ指がからかうように動く。そうしながら、シャッコに焦らしている自覚はなく、ただ自分の上で、キリコがこんな間近に無防備な表情を晒しているのが珍しい眺めで、もう少しそれを見ていたいと、そう思っただけだった。
 キリコも同じように、見慣れないシャッコの、熱に浮かされたような表情が物珍しく、自分がこんな顔をさせているのだと思いつくと、いっそう躯の奥が熱くなった。
 いつもの、躯を繋げるやり方ではなく、こんなところではただ触れるだけしかできないのに、この狭ささえ我慢すれば、確実に外と隔てられていると言う安心感かどうか、普段はあらゆることに恬然としているくせに、今だけはふたりとも油断し切った風に、互いの体温に互いを委ね合っている。
 キリコの躯が、先を急ぐように動くのに、ようやく調子を合わせながら、シャッコはそれでもまだわずかに先は譲らずに、キリコの方へ口元を寄せて、ほとんど息を吹き込むようにそこでささやいた。
 声を・・・。
 息を吐くような言い方に、ぞくっと肩の後ろが慄えた。
 ここなら、声を殺す必要はない。ドアと壁の向こうのユーシャラに、気配を忍ばせて、ベッドが音を立てるたびにふたりで一緒に息をひそめる必要もない。
 声を殺すのは、ユーシャラのためだけではなく、どちらかと言えばキリコ自身の矜持のようなものだけれど、ここが、完全に自分の居場所──ATの中であり、シャッコの傍らでもある──だと思うせいなのか、普段の、ほとんど病的なほどの警戒心はどこかに置き忘れたように、キリコは声を殺すのをあっさりとやめた。
 後は、シャッコの掌に従って、声を注ぎ込むように、ベルゼルガのコックピットで素直に反らした喉を裂いた。
 熱を吐いた後に、ゆるやかにやって来る疲れのような脱力感に、シャッコにしがみついてさらわれないようにしながら、気の抜け切った声で、思わずシャッコの名を呼んでいた。
 声の潤みに自分で気づいて、先にそれを受け取ったシャッコが、ほとんど呆然と自分を見つめて来るのに、何が起こったのか悟ったのは一瞬遅く、不様なタイミングでシャッコから視線を外す。
 そうしながら、またひとつ、自分の周りを囲う壁が音もなく消え去ったような感覚に、キリコはまるで感謝の意を示すように、シャッコを抱きしめていた。
 自分とシャッコを再び結びつける理由になったユーシャラのことを思いながら、それでも今だけは、このふたりきりの空間にだけ心を繋ぎ止めて、今自分が触れているシャッコだけがこの世に存在しているように、もう一度、心づけの口づけのために唇を近づけながら、シャッコの名を呼んだ。シャッコが、ほとんど同じような声音で自分の名を呼ぶ一瞬前に、キリコはその唇を塞いでしまった。

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