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そして続く道 - 静寂
午後の半ばに差し掛かる頃、昼寝をさせようと、キリコがユーシャラを抱き上げたところだった。どんと扉を叩いた音がし、こんなところへ訪ねて来る誰かなどいるはずもなく、キリコとシャッコは顔を見合わせ、中から返事がなければまた扉が叩かれるかとそっと息をひそめる。
音はそれきり途絶え、つい習慣で腰へ手をやる──銃はもうないのに──キリコを制して、シャッコが扉へ近づいた。
ぶ厚い扉を引いて薄く開け、その隙間から外を窺う。天気は良い今日、そこにわずかに見えるのは相変わらず何もない地面の広がりだけだ。聞こえるのは風の音だけで、シャッコは10秒ほどまた耳を澄ませた後で、やっと扉を大きく開いた。
やはり何もない。そして、そこから1歩外へ踏み出した辺りへ横たわる、血の染みをにじませた翼を見つける。ひょろりと首の長い白い鳥だ。羽の先は乱れ、半開きの嘴が震えているのが、そこに立つシャッコにもはっきりと見えた。
「何だ。」
背後からのキリコの声に、
「鳥だ。」
振り向きもせずに答えると、ユーシャラを下ろさずに抱いたまま、キリコもそこへやって来る。
「鳥?」
「扉にぶつかったらしいな。」
シャッコの隣りから顔を突き出すように、キリコも地面を見る。血の染みが目に入った途端、キリコはユーシャラを床に下ろし、自分の後ろへ追いやった。
ぱさりぱさり、間遠に翼の先が揺れる。死に掛けているのは明らかで、キリコはユーシャラをシャッコの背後へ押しやると、ひとり扉から外へ出てその横たわる鳥の傍へ寄った。
膝を折ってしゃがみ込む。長い首が折れ曲がっているのは、恐らくこの扉へぶつかったせいと思われた。羽についた血は、噛まれて引きちぎられそうになった跡だ。牙を持つ獣に襲われて、何とかここまで逃れながら、前も見えなくなってここへ衝突する羽目になったのか。
死ぬ直前の断末魔は、人間も他の生き物も同じだ。死に切るにはまた至らず、最期の苦しみをこちらへはっきりと伝える術もない。苦痛はただひたすらに孤独だ。
キリコは、無残な姿で地面に横たわる鳥に向かって目を細め、それから背後へ振り返った。
戸口に立ったシャッコの足にしがみついて、顔の半分だけが見えるユーシャラがいる。しゃがみ込んだキリコと、ちょうど目線が同じくらいで、キリコの表情から何かを読み取ったのか、怯えたようにいっそう強くシャッコにしがみつき、そしてどういう意味なのか、キリコへ向かって小さく首を振った。
キリコはユーシャラからシャッコへ視線を移し、
「助かりそうにないが──。」
すぐに死ぬわけでもない、と言う部分は言葉を濁して、シャッコには目顔で伝えるだけで充分だった。
このまま放っておくよりは、今すぐ死なせてやる方が親切だとキリコは思う。食べるために生き物を殺すのは別に珍しいことではないし、同じ要領で、一瞬で終わりにしてやればよかった。
キリコは素早く心を決めて、力なく横たわる鳥の首に向かって手を伸ばす。指先が触れるか触れないかの間に、後ろから鋭く高い声がそれを制した。
「だめ!」
キリコなら2歩と少し、ユーシャラには6歩か7歩、その距離を転がるように駆けて来て、ユーシャラがキリコの背中に飛びつく。
「だめ! きこだめ!」
久しぶりに舌足らずにキリコをそう呼んで、背中から小さな体を滑らせて来ると、ユーシャラは、鳥に向かって伸ばし掛けたキリコの腕に全身をぶつけて止め、そこに自分の細くて短い両腕を必死で絡めた。
「だめ。だめ。」
しゃにむに訴えて来るのが、この鳥を殺すなと言うことだとはわかるけれど、かと言ってこのまま捨て置いて苦しめるのも酷だと、ユーシャラに理解させるのにどうしたらいいのか、キリコは同じ高さでユーシャラと見つめ合いながら、静かに心を揺らしていた。
「ユーシャラ。」
なだめるように、シャッコの声が飛んで来る。足音と気配を穏やかに忍ばせてふたりの傍へやって来ると、シャッコは、キリコにしがみついているユーシャラを自分の方へ引き取ろうとした。ユーシャラは自分に伸びて来たシャッコの腕を避け、さらに強くキリコの腕を抱きかかえる。
「きぃこだめ。だめ。」
「このまま放っておいても苦しむだけだ。」
今にも泣き出しそうに自分を見ているユーシャラに向かって、キリコは静かに言った。それを、シャッコがクエント語にして伝えてくれるのを期待して、ちらりと視線をシャッコへ流す。シャッコは何も言わず、それでもまたユーシャラの小さな肩へ手を掛け、キリコから引き離そうとする。
「キリコ!」
今度ははっきりと、ほとんど突き刺すようにキリコの名をきちんと呼び、ユーシャラは、大人ふたりが自分の言うことを聞いてはくれないのだと理解したのか、そこから地面へ身を投げ出すようにして、血まみれの鳥の姿をふたりからかばう。小さな両手に鳥をすくい上げ、胸の前に抱え込んで、ユーシャラはふたりに向かって大きく首を振った。
「だめ・・・。」
鳥を抱いた手と胸の前をその血で汚して、ユーシャラは地面にそのまま坐り込んで、大人の男ふたりに対峙していた。
ふたりともなぜか、手を伸ばせばいくらでも楽に扱うことのできるユーシャラの小さな体に手を掛ける気にはならず、幼な子の奇妙なその迫力に気圧され、キリコは無言でそこから立ち上がり、もうユーシャラを放っておくことに決める。シャッコはキリコの態度に倣い、手出しはせずにただ見守ることにした。
ユーシャラは、鳥に手出しをされないと悟ると、案外としっかりとした手つきで鳥を抱え、傷のない背中の辺りを小さな掌で撫で始める。鳥は、ユーシャラの小ささと体温に安心したのかどうか、不思議な穏やかさで羽をそっとたたみ、どうしたものか、折れ曲がっていた首を伸ばし、甘えるようにユーシャラの胸にこすりつけさえする。
小さな瞳の位置が元に戻り、ただ眠気に襲われているだけだと言った風に、鳥はやがて羽の方へ嘴を埋め込むようにすると、ユーシャラの腕の中に丸く血まみれの体を収め、そうして、瞳を動かしてユーシャラの方を見上げる。
キリコとシャッコの目に、それはうれしげな表情に映った。
明らかに、ユーシャラの腕の中で苦痛を和らげられ、鳥はそれから次第に呼吸を穏やかに間遠にし、ユーシャラの撫でる手もそれと一緒にゆるやかになり、キリコが想像していたよりもずっと早く、鳥はそこで静かに息絶えた。最期のひと息の痙攣さえなかった。
ユーシャラは、呼吸を止めた鳥にそっと頬ずりし、同じほどの静かさで、涙をひと粒きり流す。それが鳥の背中へ落ちて滑り、血に汚れた羽の方へ伝ってゆく。
しんと、音も言葉もなく厳かな気持ちに襲われて、キリコとシャッコは同じ速度で2度瞬きをし、自分たちを見上げて来るユーシャラへ、何のためか深くうなずいていた。
家の前の適当な位置に、シャッコが穴を掘った。何かに掘り返される恐れはなかったけれど、一応は用心に、キリコの半身程度の深さにして、それまで抱いて離さなかったユーシャラの手から、もう冷たくなり始めていた鳥の体を受け取り、穴の底へはキリコが置いた。
残念ながら手向ける花もなく、しるしにするような何もなかったけれど、そこだけは今は土の色が違い、明日か明後日くらいまでは、そこが鳥の墓とちゃんと見分けられるだろうと思われた。
シャッコがスコップを片付けた後も、ユーシャラはそこから離れず、鳥の埋められた地面を小さな掌で撫で続けていた。
キリコは何となくそれに付き合い、地面に直に坐り込んだ膝の上にユーシャラを抱き上げ、ふたりで何となく、そこをじっと見つめ続けている。
言葉が通じれば、ユーシャラがもっと大きければ、訊きたいことはいくつもあった。なぜ止めたのか。自分ならもっと穏やかに逝かせてやれると、知っていたのか。あれはやはり、ユーシャラが神の子だからなのか。それともただ、何もかも単なる偶然だったのか。
何も知らせず、何も教えず、ここにひっそりと隠れ住んで、他の誰とも接触はない。他の生き物とすら滅多と出会わず、それでもこうして、止める術もなく次第に機会を見つけては発現してゆく、神の子の能力(ちから)なのだろうか。
あるいは幼な子と言うものは皆誰も、こんな風に不思議な力を発するものなのか。
あの鳥の、穏やかに死んだ様を見て、キリコは自分がその手を取って最期を看取った誰彼の、もうどれが誰とも見極めもつかない様々な顔を思い出している。名前などろくに知らないまま、その手を取り、真っ直ぐに目を覗き込む。開き切って元には戻らない瞳孔の、最期に映ったのが赤の他人のキリコの顔だとしても、彼らの心の中にはしっかりと何かが浮かび、それが浮かぶ時間を与えるために、キリコは彼らの手を取る。逝くのはひとりだ。それでも、最期の最期は孤(ひと)りではないように。せめて、その瞬間(とき)だけは、孤独ではなかったのだと思い知るために。
それが恐らく自分の役目なのだろうと、うっすらとあった自覚を久しぶりに思い返している。見送るために、自分は死なない。死にゆく彼らをひとりにはしないために、自分は死なないのだ。
銃の音、爆発音、走り回る軍靴の響き、ATの走行音、悲鳴、叫び、葉ずれの音、湿った泥の滑る音、雨の中で抑えようもなく弾む呼吸、ひたすらに騒がしい戦場で、死はただ静かだ。静寂を運び、静寂で包み、静寂がすべてを覆い隠して終わらせる。
穏やかでも安らかでも健やかでもない死は、けれど皆等しく静かだ。
鳥を抱え、その腕の中で静かに逝かせ、あの時ユーシャラに感じたほとんど神々しいような印象は、恐らく錯覚ではなかったのだろう。キリコたちを粛然と圧倒したのは、間違いなくユーシャラの身内にひそむ、人智の及ばない力のせいだ。
あの鳥はもしかすると、ユーシャラに会いにここまで飛んで来たのかもしれない。自分の死を悟り、ユーシャラの腕の中で死ぬために、ここへやって来たのかもしれない。ユーシャラだけが与えられる、穏やかな静けさを求めて、あの鳥は飛び続けたのかもしれない。
だとすれば、キリコもまた同じような理由で、ユーシャラに結びつけられているのかもしれない。死を見守り続けていたキリコの最期を静かに見守るのは、このユーシャラなのかもしれない。
今キリコは、ユーシャラのために生きている。そしていつかは、ユーシャラのために死ぬのかもしれない。
先に逝った顔ぶれに、常に抱いている淡い嫉妬の感情を、なぜか今キリコはふとどこかへ置き忘れたように、あまりに身近にあり過ぎる死のその存在が、自分にとってはひどく遠いものであることを、厭うでもなく忌み嫌うでもなく、すとんと心の奥へ落ちて来る。
死はただそこに在る。静かに、ひっそりと、誰かの背を狙うでもなく、誰かの足元をすくうでもなく、ただそこに在る。
ああそうか、とキリコは思った。
おれたちはただ、そういうものだ。
自分の首に両腕を回して抱きついて来るユーシャラをそっと抱き返して、キリコは珍しい仕草でユーシャラのやわらかい髪に頬をこすりつけた。陽射しの匂いと甘い乳の匂いがする。鳥が感じただろうぬくもりを自分の胸に移しながら、ようやくそこだけ色の違う地面から心を引き剥がし、キリコは家の中へ戻るために立ち上がる準備をした。
心の通じている証拠のように、後ろで扉が開く音がして、シャッコが呼び掛ける声が届く。
「コーヒーが入ったぞ。」
「シャッコ!」
シャッコの声に答えて、ユーシャラがキリコの肩越しに首を伸ばした。
ユーシャラを抱いたまま立ち上がり、キリコは鳥の墓に背を向ける。キリコが生き続けるもうひとつの理由が、そこに立ってふたりを待っている。
埋められた土の下で、鳥は静かに眠り続ける。もう苦痛はない。
「キリコ。」
ユーシャラがキリコの名を呼んだ。
答える代わりに髪を撫でて、ユーシャラが鳥を抱いていたように、キリコはユーシャラを抱えて、家の中へ戻ってゆく。シャッコが、そんなふたりをそこで待っている。
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