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そして続く道 - 夢の涙
覗き込まれている気配に、目を覚ました。自分の上に影が差し、目の前のその人影が一体誰か、見極めようと、まだはっきりとはしない視界を細めて、そこへ目を凝らす。ただ丸い輪郭、見下ろす視線の奇妙な鋭さがまず目を射て、それから、うっすらと人の顔が見え始めると、キリコは不可解さにいっそう目を細めた。
自分だ。考えた通りに唇だけが動く。上と下で視線が合うと、まったく同じ色の瞳が、同じように動いて、互いを見ていた。
角度のせいなのかどうか、自分だと思ってはみても、どこか鏡で見る自分の顔とは違い、幼い印象を受けるその自分は、裸で寝ている自分とは違って耐圧服を着ていて、そして、近頃では記憶の中でしかない、あのATの独特の匂いがした。
おまえは誰だ。
相変わらず声が出ない。声が響くのは自分の頭の中でだけだ。
「おれはおまえだ。」
目の前の自分が、唇を動かした。声もやはり、自分が聞いているのとは違って聞こえる。他の人間たちの耳には、自分の声はこんな風に響くのかと、キリコは思った。
自分と同じはずの声は、けれど顔立ち同様どこか幼く、収まりが悪いように言葉の合間が不安定にかすれる。声変わりが終わり切ろうとしている、けれどまだ充分に大人の声ではない、自分の声。
これは、ATにやっと慣れた頃の自分だと、キリコは気づいた。
自分の体をまたいで、自分を見下ろしている、今の自分よりも幾分幼い自分。眠っていた30数年を数えれば、孫と言ってもいいくらいの隔たりがあるけれど、現実には数歳の違いしかなく、もう戦場でATを操縦し、人を殺した経験を積んで、気持ちばかりは先走りで大人になってしまっていた、あの頃の自分だ。
「おれもおまえだ。」
目の前のキリコが、同じことを、言い方を変えて言う。
「ああ、そうだろうな。」
キリコは自分に向かって、抑揚のない声を出した。
あの頃、今の自分を想像できたろうか。運命と出逢って、魅かれて、求めて手に入れた後で、喪った。文字通り抜け殻になった後で、胸に空いた穴は埋められるはずもなく、けれど別の、手間の掛かるものを手に入れて、血の臭いも煙の匂いもない暮らしをしている。耐圧服を、今は滅多と手に取ることもなく、ATは整備をするだけで、走らせることもほとんどない。最後に人を殴ったのがいつか、もう思い出せない。
幸せだと言う言葉は思い浮かばなかったけれど、それに近い、何か別の言葉をつい探そうとした。
また目を細めたキリコを、相変わらずキリコは黙って見下ろして、何か考えている風に、唇の先を少しだけ尖らせて、そして口辺をわずかに下げた。
おれはこんな表情(かお)をするのか。キリコは、まだフィアナと出会っていないだろう自分を見上げて、己れのこの幼さを、今は痛々しく感じる自分に驚いている。
フィアナが、こんなにもおれを変えたのだ。
明日などなかった、今日すらなかった、今この瞬間しかなかった自分。この今を生き延びれば、次の15分も多分無事だ。必死でATを走らせながら、頭の中はそれだけでいっぱいだった。15分を生き延びれば、恐らく1時間は大丈夫だ。1時間が過ぎれば、きっと数時間は持つ。数時間持てば、きっと基地へ帰れる。願わくば、五体満足で。
こんなにも幼い自分が、ATを操縦し、町を焼き、人を殺した。そうして、見下ろす自分に目を凝らすうち、その肩の後ろ辺りに、もっと幼い自分の姿が見えた。
難民のキャンプを転々と移動させられていた頃だ。最低限の世話はあった。食事と、眠る場所は与えられていた。けれどそれだけだった。いかにも柔らかそうな髪は伸び放題で、目には今より表情がなく、話す言葉を知らないように唇は結ばれたまま、目に見える怪我はなくても、心の中は常に血を流し続けていた、まだ10になるかならずかの自分だ。抱きしめてくれる誰もなく、すがるための手はなく、何もかもを拒むように、体の脇に垂れて、固く握りしめられた小さな掌。薄汚れた孤児だった自分。
新兵の時期は短く、今度は薄汚れたボトムズ乗りになった。誇りなど最初からなかったから、蔑まれても平気だった。感じる何もなかった。心はずっと以前に、どこかで殺されてしまっていた。
おれは生き返ったんだ。フィアナのおかげで。
そして、フィアナを喪って、キリコはまた死んだ。
息を吹き返したのはいつだったろう。子どもの自分の姿は闇の中へ消え、また、年下の自分の姿へ目を凝らして、キリコは考える。あの後で、生きているのだと思ったのは、一体いつだったろう。いや、生きたい、生きてもいいと思ったのは、どの時だったのだろう。ユーシャラの、生まれたばかりの頃の姿を思い出していた。
キリコは、目の前の自分に、手を伸ばした。そうした自分に驚いていたけれど、表情は変えなかった。
目の前のキリコは、頬に触れられて、そちらにじろりと瞳を動かし、眉をかすかに上げて、不審と怪訝の感情を表わす。自分自身でなければ、見過ごすに違いない小さな気持ちの表現だった。
おまえはひとりぼっちなのか。
心の中でそう訊くと、目の前のキリコはいっそう困惑の表情を浮かべて、
「どういう意味だ。」
と問い返して来る。
キリコは、目の前の自分に触れた手はそのままで、ゆっくりと体を起こした。
「おれの言う意味がわからないか。」
「わからない。」
同じ自分なのに、まるで言葉が通じない他人同士のように、ふたりのキリコは同じ顔で見つめ合って、ひとりは自分の内側の混沌に自覚はなく、もうひとりはその混沌を飲み込んだ後の静けさをたたえている。
ついには息の掛かりそうな近さに顔を近づけて、キリコは、年下の自分へ向かって、知らずに薄く微笑んでいた。
そのいたわりの微笑は、キリコ自身のものではなく、他の誰かから向けられ、そうして写し取ったものだ。キリコはその自分の笑みがどんなものか見たことはなく、それがいたわりのためだと気づいてもいない。
その笑みを見て、もうひとりのキリコは、戸惑ったように小さく唇を開いた。なぜ、と訊きたいのだとわかるけれど、その唇から結局言葉は出ない。
この広い宇宙に、ひとりぼっちの自分だった。愛を知らない、誰かを愛することも、誰かに愛されることも、何も知らない自分だ。破壊の中で生き延びることだけに長けてしまった、正真正銘ひとりぼっちの自分だった。
この孤独も、ワイズマンの差し金だったのか。誰でもいい、誰かが自分を必要と言ってくれるなら、何でもすると言ってしまいそうに孤独な、そしてその孤独に気づきもせずに、だから、キリコはこの孤独を生き延びることができた。戦場で生き延びるよりも、この孤独を耐える方が、何倍もつらかったのだと、今のキリコにはわかる。
おまえはまだ、何も知らない。
無知は罪ではない。無知は弱さではない。無知は愚かしさではない。むしろ、無知ゆえに靭(つよ)く在れた自分だった。
この、自分の幼いゆえの靭さを、キリコはふと懐かしく思う。
おれは、ただの人間だ。ただの、弱い人間だ。
キリコの笑みを拒否はせず、目の前のキリコは、自分の頬に触れた手に、掌を重ねて来た。爪の長さは違うけれど、何もかもそっくりな手が、そこで重なった。浮き出た血管の走り方も、皮膚の色も、手首の骨の形さえ、確かにふたつの手はそっくりだった。
おまえはおれだ。ふたつの声が、わずかのずれもなく重なった。
ワイズマンは、万能なら、キリコのクローンをいくつも作ればよかったのだ。そうすればそのうちのひとりくらい、言うことを聞いたかもしれないのに。
ずらりと並んだ、そっくりの自分たちを想像して、キリコは心の中でだけ苦笑する。それでも多分、その誰も、ワイズマンの言うことなど聞かなかったろう。結局は、どれだけおれを増やそうと、どのおれを選ぼうと、おれの選択はひとつきりだ。おれは神にはならない。おれはただの人間だ。
そうだろう? 気づかずに、心の中で、自分自身に問い掛けている。目の前のキリコは、戸惑いをもうそれ以上深くはせず、不意に、瞳に年相応の幼さだけをあらわにした。
青年ですらなく、少年よりも、いっそ子どもの自分が、嵩高い耐圧服の内側で、急に体の嵩を減らしたように見えた。その変化と同時に、陰の差す瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がる。頬に触れているキリコの、親指に、その涙が触れて流れ落ちて行った。
涙はひどく指先に熱く、目の前のキリコは、泣いていることに気づいているのかいないのか、表情だけは一向に変えないまま、涙を流しながら泣き声を立てることもない。
キリコは、泣く自分を、両腕の中に抱き寄せた。
こんな風に、誰かを慰めるために自分の体が動くことを、キリコは想像したことがなかった。泣くユーシャラを抱き上げて、あやす。泣き止むまで抱いている。自分は、いろんなことを学んでいるのだと、初めて気づいていた。
抱きしめた年下の自分が、自分を、すがりつくように抱き返して来る。相変わらず声を立てないまま、けれど裸の肩に、涙がなまあたたかく触れる。ひとりぼっちのこのキリコを、抱きしめられるのはキリコ自身だけだった。
神ですら、孤独には耐えられなかった。ただの人間の自分が、耐えられるわけがない。
孤独に気づいて、己れの弱さを知るのは、人であることの証拠だ。
キリコは、抱いている自分の背を撫でた。誰かが自分にそうしたと同じやり方を写して、耐圧服の下で確かに震えている自分の背を、黙って撫で続けた。
不意に夢が途切れ、大きく見開いた目の前に、自分を見下ろすシャッコの顔があった。
それが自分の顔でないと、脳が確かに受け入れるのに数秒掛かり、自分を驚きの表情で見ているキリコを、シャッコが怪訝そうに見返して来る。
「どうした。」
降って来る声も、もちろん自分の声ではない。
やはり夢だったのだと、キリコはシャッコの前に体を起こして、それから、今自分が寝ているのがシャッコのベッドだと合点が行くのに、また別に2秒ほど掛かる。
近頃、自分のベッドで寝ることが少なくなった。他人と触れ合う近さで眠る鬱陶しさは絶対に受け入れられないと思っていたのに、慣れてしまえば、人肌のぬくもりのないベッドが、今度は寒々と眠りを妨げる。始末に負えないと、自分のことを考えた。
「何でもない。」
声が、起き抜けのせいかどうか、細くかすれる。
この声が、この自分が発したものかどうか自信がなく、シャッコを見ると、普段無口なシャッコは特に言葉を返しては来ず、今シャッコの目の前にいる自分は自分自身だろうかと、キリコは答えなどどこにもない問いを、頭の中で繰り返し始めた。
自分が唯一の自分であると言うことは、恐ろしいほど確証のないものだ。
夢に出て来た、少し年下の自分のことを思い出しながら、あの自分は、まだシャッコにも出会っていないのだと思い至る。ひとりだと思わなければ、孤(ひと)りはそれほどつらいことではない。誰かを得た後の方が、孤独は苦いものになる。
むっつりと黙り込んだキリコの心の中を読んだように、シャッコがキリコの頭を撫でた。ユーシャラにそうするように、指の長い大きな手が、髪の中に浅くもぐり込む。キリコは、シャッコの手に向かって、自分の頭を軽く傾けた。
自分に触れる、自分のものではない手。姿形のまったく違う、自分とは別の、他の誰か。ひとりぼっちではない自分。ひとりでないと思うのも、ひとりぼっちを思い知るのも、他人の体温の有無次第だ。ひとりでは、誰も自分も抱きしめることはできない。
「どうした。」
またシャッコが訊いた。今度は、はっきりと声が心配そうに高く響いた。
髪に触れていた手が頬の方へ滑って来て、親指の腹が、キリコの目の近くをそっと撫でる。そうされて初めて、キリコは自分が泣いていることに気づいた。
もう片方の目に、自分の手を伸ばし、そして、親指の先で流れた涙を拭う。涙は思ったよりも冷たく、実際に濡れている指先を見下ろしてから、キリコは自分が確かに泣いているのだと認めて、なぜ泣いているのかはっきりとした理由は思い当たらず、それでも何となく、これは夢の中にいたあの自分のせいなのだと感じていた。
血のように固まったりはしない涙は、そこでただ乾いてゆく。乾けば跡形もない。忘れてしまえば、それはなかったことになる。染みも傷跡も残さない涙は、忘れるために流すものなのだろうか。苦しみを洗い流すために、人は涙を与えられているのだろうか。
シャッコは、余計なことは一言も言わない。キリコも、説明はしない。
自分を慰めるために伸びて来るシャッコの腕の方へ、キリコは素直に体を寄せた。
涙は止まっていた。けれど、抱き寄せられたシャッコの肩に額を乗せて、そこで涙を拭うように、何度も頬をこすりつける。シャッコの掌は、夢の中でキリコがそうしたやり方そっくりに、キリコの背を撫でている。
今隔てなく触れ合う皮膚のぬくもりのせいで、キリコは確かに孤りではなかった。孤独でもなかった。
あの自分はもう泣き止んだろうかと、夢の終わりは、結局思い出せないままだった。