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そして続く道 4
キリコは歩き続けていた。陽を斜めに背負って、陽の沈む方向を斜めに見ながら、ずっと歩き続けていた。あまり眠っていない。久しぶりの野宿に、体のあちこちが痛む。夜露を浴びて眠るとひどく疲れるのだと言うことを、こうも簡単に忘れてしまっていたのかと、2日目の朝に、目が覚めてから驚いた。
時々、少し離れたところを、トラックが数台走ってゆくのに行き会う。どこかの町に物資を運んでいるのだろう。彼らからキリコは見えず、見えたところで、こんなところをひとり歩いている変わり者だと、そう思われるだけだ。
道──と呼べるなら──は乾いていて、足跡はすぐに風に吹き消され、キリコの後を砂埃が追って来る。1日の終わりには、体中がざりざりと埃っぽく、どこかで万が一川にでも行き会ったら、耐圧服のまま水に飛び込みたいと、幻のように思う。
毎晩、夜空は美しかった。
自分の足音しか聞こえない昼間も、同じように歩き続ける夜も、ふと背後に、子どもの泣き声を聞くような気がした。ユーシャラの声だ。昼間なら、それをなだめるシャッコの声も聞こえた。
夜中に目覚め、誰かを呼ぶように泣く。たいてい起き出してユーシャラの部屋へゆくのはキリコだ。単に、キリコのベッドがドアに近いからと、それだけの理由だった。
簡易に作った小さなベッドは、落ちたりしないように柵に囲まれ、その中でユーシャラが声を放って泣いている。キリコはユーシャラを抱き上げ、暗闇の中で、ユーシャラが泣き止んでまた眠ってしまうまで、ユーシャラを抱いている。小さくてひたすらやわらかな、あたたかい体。自分たちよりも体温の高い、思ったよりも頑丈だけれど、傷つきやすい小さな体。キリコの肩に頭を乗せ、しがみつくようにキリコの肩に両手を乗せ、泣き止む頃には、片手の親指が口の中に差し込まれている。
きこ。きぃこ。きぃいいいこ。キリコ。
何度か呼ぶうちに、まれにきちんとキリコの名を言う。きちんと呼べた時は、それはシャッコがキリコを呼ぶ声ととてもよく似ていた。ユーシャラがシャッコを呼ぶ声は、自分がシャッコを呼ぶ声とよく似ているのだろうかと、時折耳を澄ますけれど、それはキリコにはよくわからなかった。
ユーシャラの泣き声に起こされ、寝かしつけるために起き出す必要のない、静かな夜。毛布をかぶり、夜空を見上げて、その静けさが自分の真上に降り注ぐのを、キリコは目を細めて眺めている。
ユーシャラの泣く声が聞こえない。話し掛ける相手もいない。いつの間にか、孤(ひと)りでいることに不慣れになってしまっている。ひとりに馴染めばふたりに戸惑い、ふたりに馴れればひとりが侘しい。星の瞬く夜空を見上げて、ふと口をついて出たのは、シャッコの名だった。
どうしている。ユーシャラは元気か。
ひとり言にさえならず、声に出せば、空気に吸い込まれて消えてしまう。
出発の時に、扉を開けて振り返り、行って来ると、そう言ったきり振り返らなかった。シャッコが、見えなくなるまで自分の姿を見送っているのに気づいていて、手さえ振らなかった。どこへ行くと告げる気は最初からなかった。
自分でも、何かに背を押されるように出て来て、予め何かを考えていたとか、最初から目的があったとか、そんな風でもなく、行かなくてはと不意に思い立ち、後は導かれるまま足を動かし、向かう先に何があるのかを知っていはいても、それはこの目で見るまではっきりとしたものではなく、自分がそれを見るだろうと確信しているのに、それを口にするのは、何かがしっくり来ない。
恐らくキリコは、それを完全に自分だけのことにしておきたいのだろう。誰とも分け合わず、誰にも見せず、自分だけが知っている、自分だけのもの。この宇宙で、ただひとつ確実にキリコだけのものである、それ。それが呼んでいる。だから、歩き出した。
いつ、どこで、と確かなことは知らない。そこへ着けばわかる。自然に、その時がわかる。
キリコは、夜空を振り仰いだ。痛いほど首を伸ばし、青みがかった深い漆黒の空に、縫い止められたように動かず、そこで瞬いている星々を眺めた。
夜は深まりつつあったけれど、夜明けはまだ少し遠く、疲れているはずなのにまだ眠気を呼び寄せられず、キリコはそうして空を見上げ続けていた。
空の高さと星の輝きが、ユーシャラを思い出させた。自分の足にまといつき、抱き上げられたがる小さな体。ユーシャラは、キリコを待っているだろうか。
1週間ほどで戻ると、そう言った時に、一瞬シャッコの瞳に走った光を、キリコは見逃さなかった。そうかとうなずいただけの、ほんとうに戻って来るのかと、問いたげな言葉は、唇の端で泡のように消えた。キリコは何も言わず、シャッコは何も訊かなかった。問われて、もちろんだとうなずけたかどうか、キリコには分からない。
雨風を避け、夜露をしのぐ場所なら、いくらでもある。そうやって生きて来た。場所を定めず、その日のねぐらだけを求めて、そうやって生き続けることはできた。
欲しくもないものは、さっさと取れと目の前にぶら下げられ、ほんとうに欲しかったものは絶対に手に入らない。自分が欲しいと思うもの以外に、キリコは何の価値も見出せない。神だの銀河の秩序だの支配だの、それを拒んで放浪(さまよ)い続けるキリコを、テイタニアは絶対に認めないと言った。
誰かに認められたくて生きているわけではない。自分にその能力があろうとなかろうと、キリコ自身の知ったことではない。死にたくないと思ったその理由は、とっくに失われている。それがないなら、世界の存在さえキリコには無意味だった。その代わり──代わりになると言うのなら──のように、自分の腕の中に落ちて来た小さな赤ん坊は、まだ海のものとも山のものとも分からず、キリコにとってはただの子どもに過ぎない。
それでも、自分が救ったことによって運命を定められてしまったあの子どもを、今まで振り捨ててきたあらゆることと同じに、捨て置くこともできない。あの子は今では、キリコが戻るべき家(ホーム)になっている。
シャッコが、あの子と一緒に、キリコの帰りを待っている。
毛布を、もう少し近く、自分の体に巻きつけた。膝を抱き寄せたその格好が、ひどく孤独に見えることを、今キリコは気づかない。
あの赤ん坊──ユーシャラを、キリコが救った。それはキリコが選んだことのように見えて、実のところは、ユーシャラがキリコを選んだのだ。自分を救い、自分を育てる人間として、ユーシャラがキリコを選んだのだ。
ユーシャラはきっと、キリコがどこへ向かっているのか気づいているのだろう。なぜキリコが歩き続けているのか、知っているのだろう。まだ言葉を持たないあの子どもは、すべてを見通して、キリコが戻って来ることを知っている。自分の元に、キリコが再び姿を現し、戦いのない日常の中へ戻って来るのだと、ユーシャラは確かに知っている。自分にひもじい思いをさせないためにキリコが立ち止まり、名もない土地に根を張ることをついに選んだのは、自分がそうさせたのだと知っているはずだ。
相変わらず、キリコは誰かの掌の上で踊っているだけなのかもしれない。すでに定められた道を、自分がその方向を選んだと思い込んで歩いているだけなのかもしれない。その道筋に、以前は小競り合いと殺し合いと謀略が転がっていた。今は、毎晩同じベッドに眠る夜と、ユーシャラのために過ごす日々がある。そうして、その道を歩いているのはキリコひとりではない。
きぃこ。
シャッコがそう教えた言い方で、ユーシャラがキリコを呼ぶ。ユーシャラを抱いたシャッコが、キリコの帰りを待っている。
キリコはまだ歩き続けなければならない。家に戻るのはそれからだ。
じきに、戻る。
自分の足元に向かって、声に出してそう言った。しんと静まり返った空気に弾き返されて、その声はキリコの胸に突き刺さった。
夢の中に誰かが現れるだろうかと、知った顔をひとつびとつ思い浮かべながら、キリコはようやく眠ろうと地面に体を横たえる。星に向かって目を細めてから、近頃はいつもユーシャラにそう言うと同じに、おやすみ、と小さくつぶやいた。誰が聞いていなくても構わなかった。
泣く声が聞こえた。扉を叩く音も聞こえた。
声に比べれば、扉を叩く音はとても小さく、叩いていると言うよりも少し強く撫でているような音に聞こえた。
シャッコはベッドから飛び降り、ユーシャラの部屋へ行こうとしてから、泣き声が家の入り口から聞こえて来るのに気づいた。
「ユーシャラ!」
呼ぶと、泣く声が一瞬止まり、
「きいいいこ!」
思ったよりもしっかりとした声が、けれど舌足らずにキリコを呼ぶ。
一体どうしたと大股にそちらへ向かうと、寝巻き姿のユーシャラが、まるで外へ出せと暴れる獣の子のように、扉の下部を両手で必死に叩いている。
「きいこ、きぃいいこ!」
「どうした。」
抱き上げようとしても、体をねじってドアから離れたがらない。
「キリコがいるのか?」
「きぃこ!きこ!」
涙はほとんどおまけのように、ただ何かを訴えて、ユーシャラは叫び続けていた。
シャッコは立ち上がり、扉をそっと開けた。冷たい夜気が滑り込んで来る。それにシャッコが首を縮めた途端、ユーシャラはするりと扉の隙間から体を抜き出し、外へ走り出してゆく。
いつもよりずっと早く、確かな足取りで、まるでもっと年かさの子のような動きで、ユーシャラは家の前へ走って行った。
「ユーシャラ!」
明かりなどない真っ暗な夜に、ユーシャラの寝巻きの裾が揺れるのが、白く淡く見える。それを追って、シャッコも慌てて走り出した。
いつも夕方になると、そこに立ってキリコが夕陽を眺めている辺りで、ユーシャラは正確に足を止め、追って来るシャッコを振り返る。そうして、空を指差し、
「キリコ。」
不意に大人びた声で、驚くほど正確に、キリコの名を言った。
ユーシャラの指先の方向へ目をやりながら、シャッコは今度はユーシャラを逃がさないように寝巻きの襟をぐいとつかみ、猫の子か何かのようにひょいと持ち上げる。そのまま、両腕の中にしっかりと抱え込んだ。
「キリコがどうした。こんなところにいたら風邪を引く。」
目線の高さを同じにして、暗闇の中では互いの顔はしっかりとは見えないけれど、それでも目の辺りをきちんと見て言うと、ユーシャラはシャッコの腕の中で体をねじり、また空を指差した。
「きぃこ。ゆーさ!」
今夜はいっそう空が暗いように見えた。星の数が少ない。こんな時間に空を見上げることなど近頃なかったから、それとも夜空はこの頃には、いつもこんなに暗いのだろうか。
「ゆーさ。きこ! ゆさ!ゆさ!」
その暗い空をユーシャラは指差し続け、シャッコがそちらを見上げるまでそれを続ける。
ユーシャラと一緒に夜空を見上げて、そうしてシャッコは、突然、ユーシャラが自分の名を呼んでいるのではなく、クエントの言葉で空を表すその言葉を言っているのだと気づく。正確には、夜空を表す言葉は他にあるのだけれど、ユーシャラはまだその言葉を知らない。
キリコと空。高い高い、手の届かない空。
「あいつも、空を見ているのか。」
こんな夜中に、と不思議に思いながら、ユーシャラに問うように訊いた。
「ゆーさ。キリコ。きぃこ。」
またユーシャラが空を指差す。小さな、きちんと爪のあることが信じられない指先が示す方を、シャッコは正確に見上げた。そうして、すかすように目を凝らして、暗い夜空の遠くを見た。
果てのようなその夜空の端に、小さく小さく光るものがある。シャッコたちの左から右へ、動いているともわからない微かさで移動する光を、シャッコの目がとらえた。
シャッコの目にだから映るそれは、青白く光り、尾を引く強さもない。流れると言うよりも、大気の中を漂っているようなあやうさで、それでも確かに、左から右へ、小さな小さな光が動いている。
「きいこ。ゆーさ。」
シャッコがそれに気づいたことに満足したのか、ユーシャラの声は今度は落ち着いて、やや間延びした言い方で、またキリコと空と繰り返す。
キリコが今見上げている空を、ユーシャラはシャッコと一緒に見上げている。そうしてあの、小さな光を、キリコも見ている。キリコがいるだろうところなら、もっと近く、明るく見えるのだろう。
ああそうか。そうだったのか。
まだ光に目を細めたまま、シャッコは胸の中でひとりごちた。
すとんと合点が入って、ユーシャラがこの光を見たがった訳を、シャッコにも見せたがった訳を、あらゆることがきちんと繋がった後で、シャッコはすべてを理解していた。キリコが旅に出た理由も、ゆく先を言わなかった理由も。
空が繋がっている。キリコが見ている空と、今シャッコとユーシャラが見ている空は同じだ。隔たってはいても、見上げている空は同じだ。
「中に戻るぞ。」
まだ空を見上げているユーシャラに声を掛けて、シャッコはようやく家の方へ肩を回した。ユーシャラは素直にシャッコの腕の中に収まり、それでもぶ厚い肩に小さなあごを乗せて、まだ遠い空を見ていた。
シャッコの体も、ユーシャラの寝巻きもすっかり冷えてしまっている。風邪を引かせたら面倒だなと思ってから、ユーシャラが首にしがみついているのを言い訳にして、シャッコはユーシャラを抱いたまま、自分のベッドへ戻った。
「今夜だけだからな。」
小さな体を自分の傍へ横たえ、枕の端を分け与えて、シャッコはユーシャラをきちんと自分の毛布の中にくるみ込んだ。
夜気がまだ体の回りを覆っていて、あたたまるには少し時間が掛かる。ユーシャラはシャッコの首の辺りに額を寄せ、冷たい手を鎖骨の辺りに当てた。
「・・・あいつが戻って来るのはいつだ。」
ユーシャラの方へ顔を向けると、空のキリコのベッドが見える。そちらにちらりと視線を流してまたユーシャラを見ると、ユーシャラは考え深げな表情を浮かべて、
「知らない。」
と、ひどくはっきりとした声で言った。
そうか、と少しだけ落胆して、シャッコはそれきり口を閉じた。
すぐに眠る気にならず、さっき見上げた空の暗さを思い出しながら、真っ暗な天井を眺めている。
肩口に、ユーシャラの柔らかな髪が当たって、小さな掌はシャッコの二の腕の半ばへ添えられて、いつものように親指はもう口の中だ。
「・・・おやすみ。」
もごもごと指を噛みながら言うのが、それでも、キリコの言い方そっくりだった。
ユーシャラの小さな体の分だけ、毛布の中があたたかい。今自分の傍らにあるぬくもりを、シャッコはひどくありがたく思った。
「お休み。」
返事をして、ユーシャラの額に自分の額を合わせて、それからシャッコは、ユーシャラの前髪に唇を押し当てる。
「お休み。」
もう一度同じことを言って、ユーシャラにもう少しベッドのスペースを分け与えた後で、シャッコはようやく目を閉じることにした。
朝には、5日目になろうとしていた。