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そして続く道 - 団欒

 夕食の後、何となくテーブルの狭苦しさが気になって、キリコは椅子を少し離れたところへ運び、そこで腰を下ろした。
 椅子がひとつ減った分、テーブルの下が少し広くなって、ユーシャラはそれを気に入ったのか、近頃では一人前の騒がしい足音を立てて、そこへ出たり入ったりを繰り返している。
 淹れたばかりのコーヒーを片手に、殺風景な部屋の中、見るものと言って動き回るユーシャラしかなく、キリコはぼんやりと、テーブルの下や床近くへ視線を投げていた。
 椅子の背に体を預け、いつもよりも足を伸ばし気味に、ややだらしなく坐っていると、自分の分のコーヒーを手に、シャッコが台所から戻って来る。ぽつんと、テーブルから離れて坐っているキリコを見て、それからテーブルの下で遊び騒いでいるユーシャラを見て、もう一度キリコを見てから、シャッコは同じようにテーブルから椅子を離し、キリコよりはややテーブルに近く、ユーシャラに向き合えるような位置に坐った。
 「シャッコ!」
 台所では相手をしてもらえないけれど、こうやってくつろいだ時間になれば、シャッコにいくらまとわりついても叱られない。ユーシャラはテーブルの下から顔を覗かせ、肩をすくめて顔いっぱいで笑い──ココナは、こういう子どもの表情を、おしゃまだと表現するけれど、この男ふたりにその語彙はまだない──、それからシャッコの足に飛びついてゆく。
 シャッコに頭を撫でられ、ユーシャラはまたテーブルの下へ走り込み、またひとつ椅子が減って、もっと広々としたそこで、まるで踊るように小さな足を踏み鳴らした。
 ふたりに見せるように、気に入った音が出ると顔を上げ、テーブルの下から顔を突き出し、ふたりがきちんと自分を見ていることを確かめる。キリコはあまりそれに集中はしていなかったけれど、音がするたびに、一応義理で顔だけはそちらに向けていた。
 テーブルの脚の回りを、くるくると跳ねるように走り回り、2脚残った椅子の上へ両手を置き、よじ登ろうとする振りだけして、椅子がきしんだ音を立てるのを喜ぶ。一体何が楽しいのか、ユーシャラは騒がしくひとり遊び続けている。
 シャッコは、こんなユーシャラをいくら見ていても飽きないらしく、うっすら笑みを浮かべて、時々体を前に大きく傾け、床近くからこちらへ向くユーシャラと視線を合わせることさえする。
 キリコは相変わらず椅子の中にやや体を伸ばしたまま、ユーシャラとシャッコを交互に眺めていた。
 ユーシャラの吐く息で、部屋の中に熱気がこもり始めた頃、さすがにそろそろユーシャラの立てる音が耳障りになり始め、キリコは、コーヒーと一緒に少し外に出るかと考え始めたところだった。
 外に出て、ここよりはずっと冷たい空気を吸って、コーヒーを終わらせて、それからお代わりのために部屋に戻って来ればいい。そう頭の中で素早く計画を立てた。ドアを閉めれば、ここの騒がしさはするりと途切れる。ほんの15分かそこら、ユーシャラのこともシャッコのことも忘れて、自分がどこで何をしているのかも忘れて、頭を空っぽにしたかった。
 「キリコ。」
 家の外を歩き回っている自分の姿を想像していると、膝の辺りから声がした。
 いつの間にテーブルの下から出て来たのか、ユーシャラがキリコの膝に手を掛け、そこからキリコを見上げている。何かを期待するような、熱っぽい目だった。
 声は掛けず、ユーシャラを見下ろしたまま、キリコはそっと片膝を持ち上げ、足を組む。ずるりとユーシャラの手が外れ、一瞬支えを失くしたユーシャラの小さな体が、そこで不安定に傾いた。
 「きいぃこ。」
 まだいつも完全にキリコの名をきちんと呼べるわけではないけれど、呼べない時は、何か腹を立てたり、生意気に失望したりしている時だと、近頃はキリコにもわかって来ていて、自分に構えと言っているのだと悟っても、キリコはユーシャラに手も伸ばさない。
 ユーシャラの手が、少し高くなったキリコの膝に、また乗って来る。
 「きぃいこ。」
 シャッコがそうしたように、頭のひとつも撫でてやれば、またすぐひとり遊びに戻るのだろう。けれどこうしている限りは、少なくとも床を踏み鳴らすあの音は聞かなくてすむ。
 キリコは床に着いたかかとを軽く持ち上げて、またユーシャラの小さな手を、自分の膝から振り払った。
 「シャッコの方に行け。」
 別に、シャッコに聞こえないようにと思ったわけではなかったけれど、少しだけ声をひそめてそう言った。シャッコ、と言う部分だけはきちんと聞き取って、ユーシャラは不満気にキリコを上目に見てから、シャッコの方へ首を回す。
 まるでキリコの仕草に倣ったように、シャッコも今は高々と脚を組んで、元々身長のせいで膝下はキリコよりはるかに長いから、そうすると、ユーシャラが背伸びをしても手を掛けられそうにはない。
 ユーシャラは、走り回って少し疲れたのか、いつもよりは少しよちよちと、キリコがそう言った通りシャッコの方へゆく。そうして、甘えた動きでシャッコの足に触れ、けれど膝上に手が届かないことに、深い驚きと落胆の表情を、小さな肩先にはっきりと浮かべた。
 しかもシャッコは、そこから自分を見上げるユーシャラに手は貸さず、さっきまでの笑みはどこへ置いて来たのか、コーヒーを口元へ運びながら、ちらりとユーシャラに一瞥をくれただけだった。
 「きいぃぃこ。」
 シャッコの足元から、ユーシャラがほとんど泣きそうな表情でキリコを見返して来る。
 ユーシャラがシャッコのところへ行った瞬間に、頭の中でそう予定していた通りに、立ち上がって外へ出て行くべきだったと思いながら、今そうすれば絶対にユーシャラが泣き出して、そのユーシャラを抱き上げて外へ連れ出す羽目になると、まるですでに起こったことのように予想できる。
 シャッコにやんわりと拒まれて、ユーシャラは、小さな丸い頬をいっそうふくらませて、またキリコの方へ戻って来た。
 これは、たまにはおまえもユーシャラの面倒を見ろ、と言うことなのか、おれは疲れている、と言うことなのか、それとも単に、ユーシャラにまとわりつかれて多少うんざりしているキリコを眺めるのが面白いだけなのか、どれにせよ、シャッコに反論する余地のないキリコは、組んだ膝はほどかないまま、ユーシャラには見えないようにそっとため息をこぼし、それから、体を傾けて、床の上にコーヒーのマグを置いた。蹴ったりしないように、椅子から少し離し、そうして、また自分の膝に手を掛けているユーシャラに、やっと両手を差し出してやる。
 「きぃこ。」
 持ち重りのする体を抱え上げて、膝の上に乗せる。背中をこちらに向かせ、キリコと一緒にシャッコに対面する形に抱くと、さっき抱き上げるのを拒まれたのがよほど気に障ったのか、
 「やっ! シャッコやっ!」
 両手を振り回して、強引に体の向きを変えようとする。
 シャッコはおかしそうに、肩を揺すってそれを笑い、キリコはやれやれと肩をすくめて、ユーシャラが自分の方へ向くように抱き直した。
 「シャッコ、や。」
 キリコの胸に横顔を伏せながら、また同じことを、少しやわらいだ声で言う。
 「キリコ。」
 シャッコに聞かせるためかどうか、語尾を伸ばした甘えた声でキリコを呼んで、額を肩の近くにこすりつけて来た。
 さっきまで跳ね回っていた体は、まだ汗に湿って熱い。自分の膝をまたぐ形に、自分の腕の中で全身を伸ばし切っているユーシャラを、キリコはとりあえず両腕でしっかりと抱いた。
 床に置いた飲み残しのコーヒーに、未練がましく心をまとわりつかせて、それでも今は腕の中にいる小さなユーシャラに、気持ちの端を移して行きながら、キリコはユーシャラの頭を撫で、背中を撫で、それから、剥き出しの素足に触れた。
 すべすべと、驚くほど柔らかな子どもの皮膚。触れただけで傷つきそうなのに、果てしもない弾力にあふれて、ふくふくとした、幼い筋肉とも脂肪ともわからないその手触りに、キリコは思わず目を細める。こうやって掌を乗せて、指の腹を押し当てているだけで、ふっと心がやわらいで来る。まるで、人の心を解かすために存在しているような、小さな子どもの感触だった。
 四つ足の獣を、抱き上げたあやふやな記憶が甦る。いくつだろう、このユーシャラよりはずっと上だったはずだ。ぐんにゃりと湿った体を自分の掌に預けてじっとしていた、小さな獣。痛めつけたり、弄んだり、あるいは何かの目的で殺したりするためではなく、ただひたすらその可愛らしさに手が伸びて、触れている間、幼いキリコは知らずに微笑み続けていた。
 あの小さな獣、姿形はもうおぼろで、けれどぬくもりと重みだけは確かに憶えている。ユーシャラを抱いている腕の中に、その獣の記憶が甦って、ああ同じだと、キリコは思った。
 しっかりと歩けるようになってから、こうして抱き上げることが少なくなった。もっと抱いてやるべきなのだろうと、ふと思う。それはユーシャラのためだけではなく、キリコやシャッコのためにも、この小さくて柔らかな、扱いを間違えれば大変なことになるこの体を、優しさだけを込めて抱くことを、そうできる限り続けるべきなのだろう。
 戦場では、命取りにしかならない優しさを、ほとんど初めてのように、ユーシャラを通して学びながら、その甘美さに、キリコは時折慄然とする。あの将校たちにも子どもはいるだろうに、こうして、血の繋がった自分の子を抱きながら、なぜ彼らは戦争を起こそうと考えられたのだろう。
 あるいは、彼らは自分の子をこうして抱きしめたことなどなく、血なまぐさい謀略ばかりが詰まった頭の中には、この柔らかさへの渇望など、ちらとも存在しなかったのか。
 親になると言うのは、ただ子どもを持つと言うだけのことではないのだと、血の繋がらないユーシャラを育てながら──大半はシャッコが世話しているにせよ──思い至る。
 ユーシャラは、キリコに抱かれて、ほとんど微睡み始めていた。
 シャッコが、そっと椅子から立ち上がり、足音をひそめてキリコたちの方へやって来る。キリコの足元近くで、ゆっくりと膝を折り、キリコがそこへ置いたコーヒーのマグを取り上げた。
 「もう1杯、どうだ。」
 ユーシャラのために、声を低めてシャッコが訊く。キリコは声は出さずにうなずいて、そのついでに、ユーシャラの髪に、あごの先を軽くすりつけた。
 シャッコはすぐには立ち去らず、両手にひとつずつコーヒーのマグを持って、そこでふたりを見下ろしている。寝入り掛けているユーシャラの横顔に微笑み掛け、そのままキリコへ視線を移し、それから、背高い体をそっと傾けて、キリコの前髪の辺りに唇を落として来た。
 シャッコが、時々ユーシャラにそうするような、ただいとおしさを表わすような、静かな淡い口づけだった。
 唇が触れたとも思えないかすかさだけが残り、動いた空気を追ってキリコは顔を上げ、自分とユーシャラを、この上ないほど穏やかな目で見下ろすシャッコが、やっと肩を回して台所へゆくその大きな背中を、同じような穏やかさで、キリコは見送った。
 ユーシャラとシャッコから、ほとんど浴びせられるように与えられている優しさ。それをいつか与え返ればいいと思いながら、キリコはユーシャラの髪に顔を埋めるようにして、そこでそっと目を閉じた。
 じきにコーヒーの香りが漂って来る。シャッコの気配が、それに交じってキリコたちの方へやって来る。ユーシャラをベッドへ運ぶために、キリコはもう一度腕の中に、小さな体をしっかりと抱き直した。

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