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そして続く道 - 悪癖 2

 ユーシャラの泣き声が響き、キリコはほとんど反射的に飛び起きると、部屋を出てユーシャラのところへ行った。
 「きぃこ。」
 泣けばキリコが来るのを知っているユーシャラは、もうベッドの上に立ち上がり、周りを囲った柵から腕を伸ばして、キリコを待っていた。
 部屋の明かりはつけずに、黙ってユーシャラを抱き上げ、キリコの名前を相変わらず舌足らずに呼びながらしゃくり上げ続けるユーシャラの背を撫でる。声を上げるたび背中が痙攣するように揺れ、派手なのは声ばかりで、涙はあまり流れないけれど、それでも頭を持たせかけたキリコの肩には、生ぬるくユーシャラの泣いた跡が染み透ってゆく。
 「怖い夢でも見たのか。」
 キリコがアストラギウス語でそう言うのを、きちんと理解したのかどうか、泣くのは止めずにただキリコにしがみつき、ユーシャラはいつまで経っても寝直す気にはならないようだった。
 後ろのドアは開いたままだ。泣き声は、きっとシャッコのところまで届いているだろう。元々眠りが浅くて、睡眠に頓着しないシャッコは、多少の物音は気にはしないとわかってはいても、ユーシャラの止まない泣き声は、キリコの神経に障り始めていた。暗い部屋の中にこうしていると、息が詰まりそうになる。
 自分のベッドで一緒に寝れば、泣き止んでおとなしく寝るだろうかと考えてから、ベッドを分け合う鬱陶しさに耐えられそうにないと、無理はしないように自分に向かって首を振る。
 天井を振り仰いで大きく息を吐くと、キリコはユーシャラのベッドから毛布を取り上げ、片手で器用にユーシャラをうまくその中へ包み込んだ。泣いてはいても、キリコの手には抵抗しない。生まれたばかりの頃のように、手足を縮める形にまとめられて、毛布にくるまったユーシャラは少しばかり小さくなったように見える。キリコはそのユーシャラを抱えて、そのまま部屋から家の外へ出た。
 もうずいぶんと暖かい。それでも、このままここで夜明かしできるほどではなかった。
 ユーシャラは、部屋の中よりは冷えた空気に濡れた頬を撫でられ、いっそう高く声を放つ。けれど自分の声が、どこへも届かず跳ね返りもせず、夜空へ吸い込まれて消えて行ってしまうのに、ついには力負けしたように、次第に泣く声は小さくなって行った。
 キリコはユーシャラを抱いて、家からは10mほど離れたところへ立ち、辛抱強くユーシャラの小さな背中を撫で続けている。
 あやすために掛ける言葉も、子守唄も知らない。キリコにそんなものは期待はしていないだろうユーシャラは、キリコがそうして抱いていてくれれば満足なのか、相変わらずキリコの首に小さな両掌を置いて、頭の角度を変えたり顔の向きを変えたり、まだ泣き止んではいなかったけれど、そろそろまた眠ろうと、そう思い始めたらしかった。
 今夜は月も星も見えない。ただ暗い空が広がって、キリコに見えるのは、抱いているユーシャラの白い顔だけだった。
 毛布の中で素直に手足を縮め、涙に濡れた頬は、キリコのシャツと夜気で乾き始めている。ユーシャラの体が少しずつ重みを増して、腕と肩にぐんにゃりと収まり、眠る時にはいつも口の中へ入れる親指は、今はきっちりと毛布の中に包まれていたから、その代わりかどうか、口の中で舌を動かしているらしい小さな音が聞こえ始めていた。
 眠ると、ユーシャラの体は途端に重くなる。大人よりも体温の高い体が、いっそう熱い湿りを増して、抱いていると、腕の内側に汗をかく。起こさないようにそっと抱き直し、キリコはまだユーシャラの背を撫でるのは止めない。
 素足の膝下に、夜風がまといついてゆく。ユーシャラが完全に寝入ってしまうまではここでこうしていようと思いながら、少しばかり体が冷え始めているのが気になった。
 ただ立っているよりも、歩き回った方が少しはましかと、家の周囲でもぐるりと回ってみるつもりで爪先を向きを変えようとした時、後ろでひそやかな足音がして、突然肩にふわりと毛布が乗った。
 「寝たか。」 
 シャッコが、これもベッドから抜け出したまま、キリコと大して変わらない格好で、長い脛を夜風に晒して、面積の大きい分、キリコよりも寒そうに見えた。
 「ああ、もうちょっとだ。」
 自分を見上げるキリコの、首の辺りまできちんと毛布が掛かるようにして、前へ垂れた分はユーシャラも軽く覆うように、シャッコの手が黙って動く。
 すでに毛布にくるまれたユーシャラと、寝巻き代わりの薄いシャツだけのキリコを見比べて、何か言いたそうに目に表情が流れて行ったのが見えた。けれどシャッコはいつものように余計なことは何も言わず、ただキリコに付き合って、そこへ並んで立っただけだった。
 「起こしたか。」
 ユーシャラを気にして、キリコが声を低めると、シャッコもつられたようにひそめた声で、いいやと短く応える。小さくした声がきちんと届くように、キリコの方へ体を寄せ、そのついでに、せっかくの毛布がずり落ちないようにキリコの背中に掌を添え、ふたりで一緒に、やっとまた寝入り始めたユーシャラを見下ろしている。
 「外に出なくてもよかった。」
 キリコが気を使ったのだと気づいているシャッコが、キリコがユーシャラの背を撫でているように、キリコの背を、ねぎらうように撫でる。
 別に、と言う風にシャッコから視線を外し、キリコはただ正面を見た。
 月も星もない夜空は、目の前の闇と交じり合って、ぼんやりと物の形の見えるだけの視界の中には、見るものも特にない。ユーシャラを抱いたキリコと、その隣りに立つシャッコの、肩の揃わないちぐはぐな輪郭が、闇に白っぽくにじむだけだ。
 空気は冷えていたけれど、呼吸が白くなるほどではなく、体を包む毛布と、傍近くに立つシャッコの体温で、キリコの周囲だけはほのかに暖かかった。
 ユーシャラはやっと寝入ったようで、もうキリコの腕の中で身じろぎもしない。
 他に見るものもなかったから、キリコは結局隣りのシャッコを振り仰いだ。正面に向かい合えば、腹に目線が来る。ほとんど喉をいっぱいに伸ばして、背高いシャッコを見上げて、シャッコもキリコを見下ろした。
 背中に添えられていた掌に少し力がこもる。引き寄せるようなそれに、体がわずかシャッコの方へ寄る。シャッコはキリコへ体を傾けて、そうして、ついばむような口づけを落として来た。
 目を閉じる暇もなかった。瞬きをした時にはシャッコはもう離れていて、薄闇の中──シャッコは夜目がきく──でも、キリコの見開いた目の表情が読み取れたのか、シャッコはキリコを見下ろしたままあごを引くような仕草を見せて、明らかに驚いたらしいキリコに、わずかの間戸惑いを刷いた。
 「これも、クエントの習慣か。」
 声だけは平たく、キリコは、皮肉にも取れる口調で訊く。
 「サンサ辺りでも見かけたことがある。」
 キリコとのこんなやり取りは慣れ切っているシャッコは、同じように平坦な声で返した。
 「いやだったのか。」
 この間は、自分から仕掛けたじゃないかと、語尾に含めながら言葉を継いだ。
 シャッコがそう訊いた途端、キリコは目を伏せ、顔を正面に戻し、そこからさらに下を向く。ユーシャラを気にしているような所作で、けれど顔を隠しているのだとシャッコは気づいた。
 「・・・いやじゃないから、困る。」
 珍しく歯切れの悪い口調で、声に困惑ばかりがあふれていた。
 はにかむとか照れるとか、およそ似合わない風に、キリコの頬が赤いのが見えなくてもわかる。
 それにつられて、自分の頬も赤くなりそうだった。シャッコは代わりに、背中に当てていた掌を肩に移し、改めてキリコを自分の方へもっと近く引き寄せる。キリコはユーシャラは片手抱きにして手を空け、その手を素直にシャッコの腰に回して来た。
 「困るのはいやか。」
 問い詰めるつもりではなく、ただ確かめておきたくて、訊いた。そのつもりだった。
 眠っているユーシャラを見下ろしてそのまま、まるでユーシャラに話し掛けるように、キリコが答えた。
 「いやじゃあない。」
 少しだけきっぱりとした口調に戻っていた。
 「だったらもっと困れ。」
 嘘も世辞もない間柄は、こういう時に便利で気楽だ。
 間に挟んだユーシャラを一応は気にしながら、シャッコはまたキリコの方へ体を傾ける。腕の長さ半分、隙間を空けておくために、キリコの首筋に両掌を添えた。キリコの手はシャッコの腰から背中へ滑り上がり、裸足のかかとが地面から軽く持ち上がる。
 「・・・ユーシャラが目を覚ます。」
 普段に似ない往生際の悪さで、キリコはシャッコから瞳だけ動かして、ほとんど触れそうに近づいた視線を外そうとする。
 「次はおれが寝かしつける。」
 言いながらシャッコは、キリコが諦めたように──あるいは、潔く──目を閉じたのを見届けた。
 唇を、触れ合わせては滑らせて外し、角度を変えてまた重ねる。そうしながら、地面の上で爪先が時々触れ合い、高さの違う膝小僧も、時々互いにぶつかった。
 親密な触れ合い方が、こうしてふたりの間で増えてゆく。そうせずにはいられなくなっている。唇が触れる間に、濡れた音が挿し込まれ、いつの間にか開いたままの唇の間で、舌先が行き交い始めている。首筋にあったシャッコの手は、今は片方はキリコの頬に触れ、もう片方は髪の中へもぐり込んでいた。キリコの片腕も、今はほとんど全身がぶら下がるように、シャッコの首に回っている。
 予想していたよりも熱を込めてシャッコに応えながら、キリコは、これを新しい癖だと考えていた。せっかく唇を噛む癖は止んだのに、また別の癖にすり変わっただけだ。触れずにはいられない。そしてこの新たな癖は、きっとそう簡単には止まないだろう。シャッコもきっと、今度は止めさせようとはしないだろう。
 効く薬などない。あるとすれば、互いに与え合えるぬくもりだけだ。ほとんど開き直るような気持ちで、キリコはもっとシャッコに近く体を寄せようと、脚を精一杯伸ばした。
 ユーシャラはキリコの腕の中で眠り続けている。自分の頭上で起こっていることはまだ何ひとつ知らず、ふたりの保護者の体温に挟まれてぬくめられて、安らかに眠り続けている。
 月も星もない夜の、そこだけがほのかにあたたかかった。

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