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名もなき花は愛の花――「鋏の託宣」から(4)

 近代名工のひとりコレリー・カラプスは、かつてある人斬りのためだけに一振りの剣を鍛えあげた。剣は重さ、バランス、柄の太さまでその男の指に合わせて作られたばかりか、コレリーは彼が手にかけた死体をひとつひとつ検分し、人斬りが最も好んだ太刀筋を最大限活かすように刃の曲線、厚みを設計した(この手法、「シャンク!」のゴダードに通じるものがある)。そうして完成した剣を男に渡す際、刀匠はこう告げた。「さぁ、渇きを癒すが良い」――
 「鋏の託宣」を読み終えたとき、どこからかこの言葉が聞こえたようにさえ思う。もっとも、記念企画としてものされた「キエサルヒマの終端」はまだしも、サルアの登場は断じてファンを喜ばせるためなどではなく、物語を進めるうえである役割を担っていたからなされたのだが。それにどちらかといえば、渇きを癒せと言って両の手足をふん縛って海に放りこまれたといおうか、はたまた飴玉でできた弾丸を乱射されてるといおうか。

 私が「鋏」を読んだのは、限定版組から遅れること約三週間後、二月も半ばのことであった。読み終えたばかりのころは取り乱すばかりであったが、いや実は今もって取り乱しているのだが、やや落ち着きを取り戻して、ふとまもなくすれば咲きはじめる水仙のことを思った。
 水仙を目にしたとき、はたして平静でいられるだろうかと本心から案じたわけでは無論ない。それでも重たいものが胸によぎることは間違いないと思われた。もし出くわしでもすれば、メッチェンの死、サルアの怒り、オーフェンの「失望」、そうしたものを連想せずにはいられないからだ。私も、刊行をリアルタイムで追っていた十代ではない。そのころのように、読んだ本の登場人物がどんな目に遭おうとひどく落ちこむということはなくなってしまった。だがやはり思春期を共に過ごし、ひとかたならぬ愛着を抱いた作品ともなれば、登場人物たちは旧い友人のようなものである。ましてやサルアへ過剰なまでの思い入れを寄せている私のような酔狂な人間ともなれば。
 そうした目で読むとき、どうしてもうひとつの水仙について「なぜ」と問わずにいられよう。葬儀の場面だけならば、ある程度の落としどころは見出せる。けれどもボリーさんに尋ねたい。「どうしてよりによって水仙だったの?」
 地下二千メートルの土牢に閉じ込められたボリーさんは、エッジの魔術(灯明の魔術!)を奪い、暗闇に白くほの光る水仙を咲かせた。他人の魔術に干渉し、書き換える能力を思えば、攻撃でも脱出でもいかようにでもできたはずなのに、ボリーさんがしてみせたのはそんな小さな「憂さ晴らし」だった。召喚による確実な脱出を粛々と待ち、しかもそれはオーフェンたちに止める手立てはないとわかっていたから、大仰なことは必要ないと――囚人の身にとって大事なことである「優しい気持ち」を求めて咲かせたのだろうか。
 もちろんたいした意味ありはせず、ただ単に私の頭がアレがアレでアレであるからこそ引っかかりを覚えているのかもしれない。水仙は字面からもわかるように「仙人」と縁のある名だそうで、そうしたしゃれはいかにも秋田らしいとも思える。清らかな水辺に咲く花を、古代中国では仙人がたたずむ姿になぞらえて名づけたそうだ。普通の視点ではどのように見えたのだろうと(明らかに私は普通でないからして)、ネット上で感想を探してみたり聞いて回ってみたりした。それによれば、おおむね一般的な解釈は「もしあえて意味を取るならば、ボリーさんからオーフェンへの嫌がらせ」というものだった。オーフェンが葬儀を――サルアとの決別を連想せずにはいられないからだろうと推測するのは自然なことだ。しかし登場人物の思考/行動レベルでの意味合いはないと私などは思う。つまりここは、逆に考えるべきなのだ。ボリーさんが水仙を咲かせるためにこそ、葬儀で水仙が捧げられていたのだと。

 秋田作品でほかに「花」が印象的に用いられているものといえば、もちろん「エンジェル・ハウリング」だ。しかしフリウの見出したそれが名もなき花であったのに対し、なぜボリーさんの場合は水仙でなければならなかったのか。現に召喚されたボリーさんの場面では光る花とあるだけで、何の花であるかは明言されていない。
 ボリーさんが水仙を咲かせた「意味」は、フリウが世界に取り戻した小さな花と、ほぼイコールで結べるだろう。ボリーさん自身、それは優しい気持ちであると語っている。むろん、ボリーさんがいかに本心から述べた言葉であっても、そしてほのかな光が真にそのあらわれであったとしても、人間にとっての「優しい気持ち」と同じだとは限らない。葬儀の場で参列者が故人に捧げた花。召喚機から現われたボリーさんがこれ見よがしに踏み消した行為に現われているように、ジェイコブズを、巨人種族を見捨てる象徴としての花。つまり水仙が「別れ」の花という性格を持たされているのは明らか。人と人との縁を切る「鋏」の意味がこめられているのだ。
 そもそも第四部において「鋏」は重要なモチーフだ。当初はチラ見せの予定だった「約束の地で」でもボリーさんの台詞の中に出てきている。反復が特徴である秋田作品に、繰り返し登場する語句は注視すべきものだろう。
 まずボリーさんが語った、「魔剣」オーロラサークルの別名としての鋏。鋏を英語で「scissors」といい、通常複数扱いされる。それは刃が二枚あるからだと聞いたのだが、だとすればもうひとつの「刃」はいったい何を指すのだろう。コンスタンスが購入したもの(本物だとすれば)やフォルテが所有していたものを考えると、世には複数存在しており、単純に「ふた振りのオーロラサークル」をいうわけではないようにも思える。それにオーロラサークルは形ある魔王術であるらしいので、ボリーさんやオーフェンがその気になればぞこぞこ出現するのではなかろうか。キー・アイテムとして登場した剣が、「世にたった一振りのものではない」といえばもちろん、バルトアンデルスの剣を連想する。ゆえに私は、オーロラサークルもまた複数存在するとみている。
 「魔術学校攻防」に掲載された次回予告では、マヨールがヒュプノカイエン(魔王殺しの剣、とルビがふられていた)を持ち、ベイジットがオーロラサークル(こちらは魔王の剣、と読ませるらしい)を持つと書かれていた。蓋を開けてみれば、往年の「ジャンプ」もびっくりな嘘予告だったわけだが、兄と妹を「一対の刃で構成された鋏」とみなすことはできるかもしれない。
 であれば、オーロラサークルを名乗るカーロッタ一派はオーフェンらと対に位置づけられるだろうか? もっともこちらは魔王いうところの「鋏」としてではなく、人間の読んだ「天世界の門」として自称したものだ。
 魔王術もまた、鋏でもってたとえられる。常世界法則(システム・ユグドラシル)に、世界の事象の根に鋏を入れて切り取る術、「あるはずのものを、なかったことにする」わざだ。魔王術はおそらく、真の意味で対象を「取り戻しえないもの」にしてしまうのだろう。逆に言えば、忘れてしまえさえすれば「まるごと取り戻せる」のだが。秋田禎信が創造し、われわれ読者が魅せられたこの宇宙にはいくつかのルール、常世界法則よりもさらに上位に位置するルールがある。そのうちのひとつが「壊れたものは元には戻せない」というものだ。壊れたものを元に戻せたら、それは「壊れていない」のと同じに、つまり「壊れている」という状態の意味が消失してしまう。魔王術は、その「最後の不可能」を侵す。
 そしてやはり、別れの花としての「鋏」だ。イマジネーションを繋げていくと、鋏という「切り取るもの(scissorsの語源はまさにこれだ)」に「優しい気持ち」がゆるやかに結びつけられているのがわかる。
 鋏の託宣――鋏を入れ(人と人との別れ)、宣(すなわちことば)を託す。それは神によって告げられた言葉であり、同時に神ならぬ身の人間が、自分以外の、やはり神ならぬ誰かに託したものなのだ。これこそを優しい気持ちという。しかし優しい、とは「親切」とか「ジェントル」のような意味とは断じて違う。さらにきびしく、激烈だ。魔王スウェーデンボリーの足音に惑わされてはいけない。

 フリウの見出した花は「世界にないはずのものが、ある」硝化の森に咲いていた、「硝化の森にこそないはずのもの」だった。ささやかながら世界に取り戻された愛の言葉であり、フリウ=ハリスコーそのものでもある。居場所のない絶対破壊者とされた少女が世界に結びついた証として、その小さな花は咲いたのだ。まさしく大地に根づくことにより。
 何色の花であったのかは文中には明示されていない。この場面では「色彩を有している」だけで充分であり、具体的な色を書く必要はないからだ。ただ「エンジェル・ハウリング」10巻表紙でフリウは一輪の白い花を手にしている。これは、イラストを担当した椎名優によるとフリウのイメージが「黄色→白/植物」であることに関係している(wikipedia調べ)ように思われる。
 花が世界との結びつきであるならば、水仙は鋏の象徴であるという話といかにも矛盾して聞こえるかもしれない。けれども「鋏」における水仙はいずれも切り花であり、ひとつとして地に咲いたものはなかった。ましてやボリーさんが出現させたのは、植えられた種から芽吹き、育ったものとは断じて異なる。結びつくもの、切り離すもの。「だがどちらも同じこと」。
 そして水仙はふたつの色を持っている。白と黄の組み合わせで「オーフェン」読者が思い出すものといえば、やはりあの黄塵が舞う地だろう。白が魔術の光であり、神人種族であるボリーさんの領域を表す色ならば、黄は巨人種族の領域といえようか。旧シリーズでは白が教会のフォーマルカラー、黄が女神とともにやってくる死んだ砂だったことを考えると、ちょうど逆転しているといえる。
 月並みなやり口だが、花言葉を並べてみるとしようか。水仙それじたいは「うぬぼれ・自己愛・エゴイズム」、白は「神秘・尊重」、黄は「私のもとへ帰って・愛に応えて」となるようだ。どれもボリーさんにかすったイメージを思い起こさせる。ただここに、「白=神人種族、黄=巨人種族」という図式を当てはめてみると、黄水仙はサルアがメッチェンに贈った花だという面がクローズアップされる。……死者に捧げる花に託された言葉としては、これ以上のものはない。
 オーフェンはボリーさんに失うことが得意と評されたけれども、サルアもなかなかに喪失にまみれた道のりを歩んできた(おそらく次はラポワント市を失うのであろう)。とはいえ、この小説の登場人物たちは皆なにかしら失った結果としての姿を、そしてこれからも失いつづけるだろう姿をさらしているのだが。水仙には「別れ/鋏」の意味が持たせられていると同時に、「私のもとに帰って」という切れた縁を結びたいと願う声をも秘めていた。しかし前述したように、作中で咲いていた水仙はみな「世界とつながっていない」。それこそ、はぐれ者の孤児だったのだ。
 たったひとりで全てを為す者が「超人」であるならば、「人間」は自分以外の誰かと縁を結び、それによって何かをなす者をいうのであろうか。チャイルドマン教師は、それを組織することと言っていたか。

 剣を贈られた人斬りには後日談があることは、「オーフェン」読者であればご存知であろう。根っからの殺人狂として知られたその男は、剣を手にして以降二度と人を斬ることはできなかった。技(アート)を完璧に理解する者がいたことで、彼の渇きは存分に癒されたのだ。
 コレリーの言葉から「スレイクサースト」と銘をつけられたこの剣の逸話が語られるのは「我が神に弓引け背約者」である。しかし「我が心求めよ悪魔」でオーフェンは由来をより詳細に語っている。そんなことを知っていたのはサルアが得意げにべらべらしゃべって聞かせたのはまず間違いない。私はそう信じている。

死の聖なるかな、と教師は言った――「鋏の託宣」から(3)

 前回、私はベイジットとマヨールを「アザリーであり、レティシャでもあり、そしてオーフェンでもある」と述べた。ところで、ベイジットは「優秀な家系で自分ひとりだけ出来が悪く、文武両道品行方正眉目秀麗な完璧超人の兄を持ち、自分の所属する閉じたことに満足しているコミュニティに不満があって、それを打ち壊そうとしている」わけだが……。どこかで聞いたような話だなあ。まあベイジットのほうはブラコンではないけれども。これは妹と弟の違いゆえなのやもしれぬ。
 さて元祖不良少年ことサルア君は、西部編(第一部)においてはキムラックを開こうとする人物だった。純粋な、混じりけのない「正しい血」だと証明できない人間を拒む都市としても、そして徹底的な秘密主義の教会としても両方の意味での解放を目論んでいた。
 それが「鋏の託宣」ではまったく逆に、商業都市ラポワント(原大陸における流通の拠点、つまり開かれた都市だ)を閉鎖しようとしている。さらには、市長としての務めを全うしているまさにそのときに家族を殺されており、これらから「鋏」のサルアは明らかに「我が神に弓引け背約者」をなぞっていることがわかる。できすぎたことに、下手人すら同じだ。
 第四部が始まって以降、阿呆のひとつ覚えのようにサルアはまだかサルアはまだかとわめいていた私は、「鋏」のページを繰りながら真綿で首を絞められるような心地を味わっていた。いかにも期待できそうな描写がちらちらと続くからだ。そんな中訪れたサルアの初お目見えは、カーロッタ寄りの議員と白昼派手に対立するという一幕だった。もっともこれは、取り引きのうえで行われたパフォーマンスだそうだが。そして「背約者」でのサルアは、自尊心の満たされなさから増長に陥ったマジクを諭していた。迷える若人を見かけると説教せずにはいられない、まさしく「ホンモノの説教屋」の面目躍如といえよう。――ということはつまり、このときも「道化をやっているときに兄貴を殺された」と思ったの? ねえねえ思ったの?
 ……話を元に戻そう。「約束の地で」にてボリーさんはこのように語った。「(前略)人の意思には、しがらみを切り払って外に進むものと、外部から自分のいる場所だけを切り取って内にこもるもの、両方がある。」(BOX版「約束」p460-461)
 友人との縁に「鋏を入れて」進むオーフェンと、市と市民を守るというしがらみにとらわれて都市を閉じる――内にこもるサルアという図式は、ボリーさん言うところの「天使と悪魔」にぴたり当てはまる。
 なんということだ、彼らは「同質で正逆」だったのだ、と思い至ったときの私の驚歎たるや。なにせあのサルアが。アニメ版マンガ版あらゆるメディアでスルーされ担当編集者にも忘れ去られていたあのサルアが。知名度も人気もさっぱりなあのサルアが。ほかでもない物語の核たる存在の主人公と同質で正逆。ああ、感に堪えぬ。
 これはあながち、とにかくサルアを贔屓したおしている人間の妄想とばかりもいえず、ほかにも幾つかの点から「サルアはオーフェンと同質で正逆」と読むのは間違いではないと思われる。……たぶん。
 たとえば、原大陸に渡ってからの彼らの家族についてだ。オーフェンはクリーオウと結婚して三人の娘をもうけた。つまり、血の繋がった家族だ。一方サルアも家族を得ているが、こちらは血縁に寄らない。メッチェンはもちろんのこと、ラポワント村民/市民も含む。オーフェンがタフレム式に親しんだ、というか孤児が多く教室のメンバーが家族同然となる《牙の塔》の出身で、サルアが血統を重視するキムラック教徒というのも見逃せないポイントだ。また旧シリーズでオーフェンはそんな家族を失っていて(消失したアザリーもそうだし、レティシャに至っては「捨てた」と明言している)、サルアも肉親を死なせていることをつけくわえてもいいだろう。
 市民がサルアにとっての家族であるというのは、はたして言いすぎであろうか? だが「キエサルヒマの終端」での「俺だってキムラック人だ」という台詞から、彼の故郷に対する思い入れがうかがえるのだし、「先祖代々住んできた土地を離れることができなかった難民」とはサルア自身のことを語っているとも取れる。
 それに崩壊したキムラックへ舞い戻った理由は、「元教師として」の責任感からというもののほかに、自分自身も崩壊の一端に関わっているという思いもあったのではないか。サルアとメッチェンは教会の変革を目論んだが、それは果たせなかった。けれどもカーロッタの述懐の中で、彼らが望んだ形ではないにしても、教会に変化が起きることはほのめかされてはいる(そして実際にそれは訪れたのだ)。クオやラポワントといった幹部格が存命であれば、外輪街の蜂起や騎士軍の派遣要請などは起こらなかった、とまではいえない。それでも、特にサルアは考えずにはいられなかっただろう。自分が死なせた兄の存在を背負っている姿を見れば容易に想像できる。
 最後に生き残った教師として舞い戻ったものの、サルアにできたのは取り戻すことなどではなく、「外に進む」ことだけだった。故郷を取り戻そうと戦う人々にその地を諦めさせ、さらには(カーロッタ派との抗争の中で)教義をも棄てさせている。だからラポワント市は自らが壊し、そしてついに取り戻せなかったキムラックでもあるのだ。
 亡兄の名をつけたことからもわかるように、ラポワント市にはサルアの家族への感慨がこめられている。家族、ひいては生まれることのないわが子という意味合いもあろう。
 そしてもちろん、オーフェンも「約束の地で」で語られたように、自らを決して許さないだろうキエサルヒマへの望郷の念を忘れてはいないのだ。
 そういえば、「あいつがそいつでこいつがそれで」連載時にも、オーフェンとサルアは対比できるのではないか、と考えた記憶はあるのだが、その根拠は忘れてしまった。

 オーフェンと同質で正逆である、という目線からあらためてサルアを見てみると、「終端」のある場面がちょっと違った絵面に見えてくる。つまり、オーフェンが魔王の力について語る場面だ。ここと、「鋏」のオーフェンとサルアの会話は「対」になっている。その構図が目の前に広がったとき、私は自分の頭を殴りたい衝動に駆られた。ウェブ連載時はもちろん、書籍化されてからもずっと「サルアはかっこいいなぁ」と呑気な感想しか抱いてこなかったからだ。
 まず「終端」の一幕は、サルアがドアをノックしてオーフェンのいる部屋に入るところから始まる。そして「鋏」では、オーフェンが出向くとサルアのほうからドアを開けて入室をうながす。視点の人物が部屋を出て行くところで場面が切り替わるところも共通している。
 そして彼らの間で交わされる会話も「余人に漏らせない本音」だ。オーフェンがサルアにこそ(あえて“こそ”といおう)魔王の力について告白したのは、たまたまサルアがそこにいたからという理由ではないと思う。ただの愚痴や弱音とは異なる話であるから、「教師としての」サルアに吐露したのだ。そしてなにより、彼らが「同質で正逆」だったからかもしれないとすら思える。あの場にいたのがクリーオウやマジク、もしくはチャイルドマン教室の面々であれば、オーフェンは魔王の力についてどう語ったのか。あるいは語ることがあったのだろうかと考えてみるのも面白い。
 「終端」でオーフェンが投げかけたボールを、サルアは(おそらくは)適切に受け止め、投げ返した。今度は逆にサルアが投げかけたわけだが、それに対するオーフェンの答えは、はたしてサルアの肩の荷を減らしたとはとても思えない。おそらくこの場面の後の姿が描かれることはないだろうから、読者としてはむなしく想像するのみである。
 「メッチェンの腕も治せる」という台詞は、「子どもを産める身体にできる」と読んでもかまわないのではないか、と以前言った。だが「終端」と「鋏」を比べると、そういう意味を含ませて書かれたものだと思える。例えオーフェンがそう意図していなかったとしても(もちろん、サルアがそのように受け取っていなかったとしても)。そうすると「対」の構造がなおはっきりする。
 それにしても、そう読むとひどく暴力的ではないか? 夜更けに複数の男が“この場にいない女”について語り合うというのは、わざわざ「源氏物語」の「雨夜の品定め」を例に出すまでもなく「きわどい」ものを連想させるし、しかも俎上に乗っているのはメッチェンの身体である。だがその無残さが「鋏」ではさらに際立つのだ。
 「終端」でサルアは、「オーフェンが魔王の力を行使した世界は、もうオーフェン自身も他者も人間ではいられない」と説いた。翻って「鋏」ではなぜカーロッタを殺さなかったのだと(そう、オーフェンは殺せなかったのではない。殺さなかったのだ)――もっとはっきり言えば「お前が力を行使しなかったがためにメッチェンは死んだ」とオーフェンをなじっている。むろんここでいう力とは、死者復活をも可能にする万能の無制限力を指すのではない。真に見るべきは、「力を行使する意思」と「行使しない意思」である。
 つまりメッチェンの身体を軸にして、「生誕と死」「生まれるかもしれない子と、ついぞ生まれなかった子(=ラポワント市民)」「力を行使することと、行使しなかったこと」が対になって展開している。さらにいえば、どちらの場面でもメッチェンは「眠りに就いている」のだ……

 最後に、ひとつ問いを立ててみよう。ウォーカーの素質があると評されたオーフェンは、サルアを――しがらみを断ち切らないことを選択した「人間」を部屋に残して出て行った。縁を代償にして得られる力とは、なに?

反復する作家――「鋏の託宣」から(2)

 想像してみる。ひょっとして、あの棺は空だったのではないか。

 オーフェンという主人公の「はぐれ旅」は、空の棺を埋めるところからスタートする。バルトアンデルスの剣を用いた実験に失敗し行方不明となったアザリーを、《牙の塔》は不名誉な存在、死んだものとして扱い、何も入っていない棺を葬った。キリランシェロはそれを欺瞞だと――「あるはずのものを、なかったことにする」ことだと暴きたて、代わりに彼自身の名を埋めることにした。新たにオーフェンと名を変えた少年は、結局「なかったこと」にされたアザリー、そしてキリランシェロ自身も「元に戻す」ことはかなわず、自ら名乗った“孤児”として生きていくことになる。
 空の棺は「約束の地で」において、思いがけぬ形で読者の前に姿を現した。ただし、欺瞞であったアザリーのそれとは意味合いが異なる。
 ヴァンパイアとの戦いで殉職した魔術戦士、アムサスは遺体の損傷が激しく、棺におさめられないまま葬儀が執り行われた。マヨールはアムサスの遺族に彼を悼む言葉をおくり、それをオーフェンは「空の棺になにかを詰める」行為なのだと、空っぽのものに意味を持たせたとマヨールに語った。つまりここでは、「ないはずのものを、あるようにする」ものとして空の棺は描かれているのだ。
 この場面は、旧シリーズ時からの読者に感慨深いものを与えずにはおれない。マヨールを通してオーフェンの内心にはかつての自分の姿が去来しているだろう。それにオーフェンの台詞にあるように、原大陸に渡ってからの二十年、彼は開拓民や魔術戦士の空の棺を埋めてきたに違いないのだから。
 (イールギットの墓は、これらふたつのちょうど中間にある)

 こうしたモチーフ以外にも、「オーフェン」という小説はいくつかの構図が繰り返し登場する。
 たとえばチャイルドマンとイスターシバ、オーフェンとアザリー、マジクとクリーオウという、「目的を遂行するため死に瀕している(年上の)女を止められない男」というものがそうだ。師から弟子へと受け継がれていった因縁――彼らは自分にはできなかったことを託していた――は、だがマジクによって断ち切られる。
 この東部編(第二部)で物語は一旦完結するため、マジクがクリーオウを止めるのはある種必然ともいえよう。しかしながら、当初書かれる予定ではなかったはずの第四部ではこの構図が再び描かれていた。いうまでもなく、マヨールとベイジットである。これは設定の段階からすでに決まっていたのか、それとも実際に執筆するに当たって生まれたのだろうか? 「秋田禎信BOX」のあとがきを見るかぎりでは、前者のように思われる。
 もう少し詳しく見てみよう。ベイジットは初登場のときからよく小アザリーだと言われてきた。確かに、規則を意に介さず周囲に迷惑をまきちらす行動をとる、というところは共通しているかもしれない。
 しかし私は、ベイジットとアザリーはさほど似ているとは感じていなかった。

“ベイジットはアザリーと対比したくなるけど、本当に対になるのはオーフェンの方なのかと思ったり”
twitter.com/jimiyama/status/184948160823701504
“オーフェンが塔を飛び出したのも、魔術士社会に対する復讐というか当て付け的な意味が含まれてたのは間違いないだろうし”
twitter.com/jimiyama/status/184951647452139521

 引用したツイートにある通り、私としてはベイジットが引き継ぐならばオーフェン(キリランシェロ)だという指摘のほうが腑に落ちるものがあったのだが、「鋏の託宣」でオーフェンの口から「ベイジット=アザリー」はあっさり認められてしまった。
 規則に縛られない点は似ているとはいえ、ベイジットは魔術士社会への反発から、アザリーは規則そのものを無視しているという違いはあった。そして迷惑の規模も魔術士としての力量も、ベイジットはアザリーにはるかに劣る。けれども、確かに以前のベイジットは「天魔」と恐れられる災厄のような存在ではなかったかもしれないが、革命を志すようになった彼女を、スケールが小さいとはとてもいえないだろう。それにベイジットもまた惚れた男を自ら手にかけて前進することを選んだではないか。
 とはいえベイジットをそっくりそのままアザリーと同一視する必要はない。失敗により《塔》から「追われた」アザリーとは違い、彼女は自らの意思で《塔》を、ひいては魔術士社会を嫌って出て行った。
 同じことはマヨールにもいえる。レティシャに生き写しだというわりに、ふたりの対照性はあまりいわれることがないが、明らかにマヨールは「置き去りにされなかったレティシャ」である。顔が同じだから、というだけではない。「後継者」でレティシャはアザリーの葬儀に参列しなかったことを悔いていたことを思うと、自分から妹を追うマヨールはレティシャの姿見だ。別個の人物を同じものとして描くのは、なにもまるきり同じ行動をさせるばかりではない。正反対の行動も(作中にならって正逆と言うべきだろうか)その根拠となる。
 また「鋏」でのラチェットとの格闘シーンは、「レティシャとキリランシェロ」と「マヨールとラチェット(エッジ)」が対比されているのだし、なによりオーフェンがこのように語っている。「君はアザリーと似たところがあるし、マヨールはティッシそっくりだ。」(「鋏」p299)
 あるいはマヨールはレティシャと等号で結ばれるだけでなく、「《塔》に残った/アザリーを殺すために追うキリランシェロ」であるかもしれない。
 つまりベイジットとマヨールは、オーフェン、アザリー、レティシャらの役割をある程度は引き継ぎつつ、彼らの別の可能性を表しているのだ。

 ではクリーオウを止めたマジク、という形で一旦は完成した図式が、なぜまた登場しているのだろうか。第四部が出てからの疑問だったのだが、先日「ザ・ベスト・オブ・オーフェン」のインタビューを読んでいて、面白いことに気がついた。

“しかも自分で考えるんだけど、それに対する反論も芽生え、だんだん自分で自分にツッコミを入れるようになりました。聞いたものを素直に受け入れられない、平たく言うとあまのじゃくな人間ができあがってしまったんですね。僕の文章に「~かもしれない」って言葉が多いのは、僕の中でのそれに対する反論でもあったりするんですよ。自分で考えているんだけど、自分でさらにツッコミを入れる(後略)。このツッコミを入れる行為が、物事を考えるうえで重要なんです(だからみんなもテレビを見ながら突っ込め!)。”(「ザ・ベスト・オブ・オーフェン」p52)

 小学校時代、通学時間が長かったために、ものを考えながら歩いていたということに続けてこう述べている。秋田の文体が反復しているのはよくいわれるところだが、先に述べたようにある図式が繰り返されるのも、いやそれどころか小説の構造そのものも反復――というより作家自身による「ツッコミ」だったのだ。

 そこでふと、想像してみるのだ。「鋏」に出てきたあの棺。あれもまた、何も入っていない棺なのではないか、と。

業務上の過失

 四月一日、すなわち嘘同盟員の日であるのでアップする。以下、サルアとメッチェンの話。続きを読む