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灰とダイヤモンド

 アンジェイ・ワイダ作品はいくつか日本語のソフトが出ているものの、残念ながらというかもちろんというか、レンタル屋には置いていない。しかしさすが名作と呼ばれるだけあって、図書館には何本かの所蔵があった。感謝感謝。というわけで、今回は「灰とダイヤモンド」を借りてきた。
 描かれるのは1945年5月、ドイツ降伏直後のある一日だ。視察に訪れたポーランド労働者党幹部の命を狙うゲリラの青年は、ほんのつかの間の恋に浮き立ち、自身の生き方に悩み、傷つきながらも任務を遂行する。しかし翌朝、青年もまた射殺され、ごみ捨て場の中で苦しみながら息絶える。
 映画で描かれているのはこうした一夜の出来事のみだが、原作はもう少し周囲の事情がこみいっているらしい。その名残りか、主人公に直接関わる人物以外にもいわくありげな人間が登場する。パーティに集まってきた人々、組織の少佐など、かれらは各々が抱える事情をそれとはなしに語っており、またその根が共通していることからこの映画は群像劇的と言えるだろう。
 ために、状況としては占領が終わったところだというのに、漂う雰囲気は開放的なものとはいえず、全編フィルムの光と影によって美しく彩られた陰鬱さで満たされている。特にラストシーンのなんともいえない悲痛さが印象的だった。

ブラック・ラグーン シェイターネ・バーディ

 メディアミックスの一環として小説化、または漫画化される場合、ストーリーは若干の味つけをほどこされつつ原作通りの展開になるか、または挿話的なオリジナルになるかの二通りになることが多いのではなかろうか。神林長平版「ラーゼフォン」のように、設定すら原作からかなり離れたものになる場合もあるが。
 さてブラクラ小説版はというと、日本編の直前という設定でラグーン商会が巻き込まれたある事件を描いている。ロックがラグーン商会に誘拐されてから2年経っていると述べられ、バラライカや張の名前が出てくるなど、いくつかの設定が明かされている。特にバラライカについては、アフガン時代の姿が描かれたり、ダッチへの借りとは何かが出てきたり、と原作で出てくると思われていた重要な設定が満載。以前、インタビューでバラライカの過去はかなり作りこんであるとあったことだし、作者は原作者の広江礼威ときっちり打ち合わせをしたようだ。
 その作者こそ、今をときめく虚淵玄である。……などと言いつつ、私はかれの関わったゲームをプレイしたこともないし、「Fate/Zero」も読んだことがない。ただネット上で高い評価を受けているので、そうかならばブラクラ小説版も面白かろうと無責任に期待していただけだ。そして実際に面白かった。
 ブラクラの魅力たる木曜洋画劇場イズム――浅いストーリーと、キャラクターたちの「クールな」言動、ドンパチ、ときたま差し挟まれる底の抜けたお笑い――満載で、なおかつファンサービスも忘れない。失礼ながら、ますます混迷を深めつつある最近の原作よりも良かった。
 それにしても張さんはいつもおいしいところばかり持っていく。そこがかっこいいのだけど。

まいご3兄弟

 見たよ。とりあえずひとこと感想を書くと「どこの少女漫画かと思った」である。

 拍手をいただきました。ありがとうございますです。

ETV特集 アンジェイ・ワイダ

 感想を書こう書こうと思っているあいだに放映から一ヶ月が経過し、BSで二度も再放送された。しかもBSでは地上波よりも時間が長かったらしい。横暴だ。<もう加入したらどうか
 アンジェイ・ワイダとはポーランドの映画監督である。世事に疎い私でさえ「灰とダイヤモンド」というタイトルくらいは聞き覚えがある巨匠だ。沢田研二と混同している可能性もあるが。
 82歳のワイダが撮った(おそらく最後の)新作「KATYN」と、そこにいたるまでの代表作を取りあげつつ、映画、そしてポーランドに対するかれの思いをたどっていく。番組がおもしろかったので、「アンジェイ・ワイダ自作を語る」(平凡社)という本を借りてきてしまった。番組だけでは分からなかった知識が補強できたけれども、訳文が「?」状態。やたら読みづらく、読了するのに時間がかかった。ポランスキーとの対談の中で「ポランスキーはいまシュピルマンの回想記を映画にしている」との記述が登場し、にやりとさせられた。もちろんその映画とは言わずと知れた「戦場のピアニスト」である。
 番組内で紹介された5作品は、いずれも戦中・戦後にかけてポーランド現代史の中でも暗く重たい部分を扱っている。ために、冷戦中はきびしい検閲をいかに突破するかがワイダをはじめ数々の表現者にとって大きな障害となった。「KATYN」など、まさしくソ連が崩壊してはじめて作ることが可能になった映画だ。「この映画は父と母の物語だ」と語るワイダにとって、00年代まで永らえたのはなによりの幸いだったろう。
 しかしそんなことよりも、表現することとはなにか、という点について私は改めて考えさせられた。ワイダの立場では、本当に表現したいこと、観客に伝えたいこととは、ともすれば削除を求められるものだった。だからこそワイダはシナリオや台詞によらず、画面に映し出されるものにこそかれの意思をこめたのだ。
 そうした「書かずに描く」という表現方法、また「なぜ、わたしは、それを表現せねばならないのか」という動機について思いを馳せてしまう番組だった。

怖い話

 すべては冗談です。

 現在放映中のとあるアニメは、ふたりのヒロインを支持するファンの間で対立が生じているらしい。いや、対立というのは正確な表現ではないかもしれない。なにせこの私、当のアニメを見ていないものでネットで仕入れた噂話程度の知識しかないのだ。
 で、聞くところによると肩入れしていないヒロイン、あるいはつれない態度をとる主人公への罵詈雑言が今日もネットを飛び交っているそうな。まあ好悪を表すのに感情的な言葉で語るのが昨今のネットでは主流である。どんなに激した言葉で表していようと、使っている本人たちは架空のキャラクターに本気で殺意を抱いていると取るのは早計であろう。ついでに言うと、刺激の強い言葉に慣れすぎて麻痺しているんだろうね。くわばらくわばら。
 当該作に限らず、とくに恋愛面で対立するキャラクターについてはそのどちらを支持するかで現実の人間関係にも微妙な影響が出るような印象を受けるのは気のせいじゃろか。たとえば、ヤンとラインハルトどちらが好きかでファンの間で喧々諤々の論争に発展したことが……あったかもしれないなあ、なにせ息の長い作品だから。ジョーと力石、アムロとシャア、飛雄馬と花形、あるいはマヤと亜弓。なんでもいいがそういうライバル関係だとファン同士での対立はでてこなさげ。…重ねて言うが、これは単なる印象である。実態はどうか知らんよ。

 まあ私のようにカップリングに関心の薄い人間は、だれとくっつくべき云々とか、その種の話には縁がない、と思っていたら案外そうでもなかったことが先日判明した。
 以前好きだった作品についての情報を調べようと、ググってみることがある。たいていはWikpediaである程度の情報を得られるが、より細かい情報、あるいは感想を求めてファンサイトを渡ることも多い。
 先日そんな理由で検索をかけた某漫画は、主人公の少女に恋人(以下A)がいる、という設定だ。物語の中で、主人公に思いを寄せる少年(以下B)が登場する。このB、出番はわずかながらなかなか人気があり、ひょっとするとファンの数はAより多いのではと思える。主人公といい感じになりつつ、結局Bは失恋してしまうのだが、それについてのコメントがわりと怖かった。
 いわく、「主人公は本当はBが好きだった」「Bと結ばれたほうが幸せになれた」「Aは主人公を幸せにできない」「作者はBとくっつく続編を出すべき」「Aいらない」などなど。怖いよ(爆)!
 そしてA派は最終的にくっついた、つまり公式という優位からか(?)無言なのだが、たまにうっすら本音が透けて見えて怖い(爆)!!普段使わないようにしているカッコ文字を使いたくなるくらい、怖い(爆)!
 特にどっちが好きということもない私でも、そのような文章を読んでいて言い知れぬ何かを感じてしまった。つまり、悪意である。
 贔屓のキャラに幸せになってほしいという思いはわかる。肩入れしている相手がないがしろにされた、と感じたときの寂しさも承知しているつもりだ。だがしかし、だがなあ…。はたしてそれは、物語の本筋を変更してまで叶える望みだったのだろうか。
 得も言われぬもやもやを胸の内に生じさせつつ、ブラウザを閉じる。いやあ、縁がないと思っていたが俗に言うカップリング抗争ってこんな感じなのか?恐怖は足の裏に忍び寄っていたんだね(爆)!つーか、10年も前の漫画でこれなのだから、現在進行形の作品ならネットの効果もあってヒートアップはただごとじゃなかろうな。
 冗談はさておき、なにかを過度におとしめたり、嘲ったりするような発言はしないようにしよう、と自戒するのであった。

 今気がついたんだが、これってかなりデリケートな話題なんじゃね?

来週ちりとて番外編

 この暑さに耐えかねて、とうとう冷房をつけてしまった。さながら脳みそをとろ火で煮とかされるような状態が続くとさすがにつらい。冷房病もお断りだが、だからといって熱中症になっては元も子もない。それにしても、冷房をつけて頭痛が治まったのはいいがお腹が壊れたのはどういうことだ。
 そうそう、ちりとてちん番外編のCMを見た。「迷子になった兄弟子たちが扇子職人の家でご厄介になる」というあらすじで、いったい話をどない動かすねんと思っていたけど、なるほどそう来たか…。確かに、本編中で草々と小草若を描ききっているし、プッシュするとしたら順当なところだろう。
 そして制作発表時には関西だけの放映とされていたのが、BSで放映となり、ついにはめでたく地上波での全国放送となっている。よかったよかった。

 拍手をいただきました。ありがとうございます。以下はいただいたコメントへのレスです。


銀英伝

 銀英伝をなんとはなしに読み返す。ひさびさに読んだけど、やっぱ面白いわ。
 さて銀英伝の話が出れば、おまえはどっち派か、ということになるわけだが(笑)、初めて読んだころは思いっきり同盟に肩入れしていたのに、いま読んでみたら特にどちらの陣営に傾くということもなく。ちなみに好きなキャラを挙げてみると、ビュコック、メルカッツ、フェルナー、アッテンボロー…(年齢順)、とたいへん分かりやすい。
 好き、とは少し意味合いが違うがオーベルシュタインやロイエンタールもいい。わりと説得力のない展開が続く原作6巻以降、わけても9巻で起こる叛乱はどう贔屓目に見ても無理があって、叛乱の動機付けはもうすこしなんとかならんかったのか、と首をひねらざるをえない。しかし、これがアニメ版になると役者諸氏の演技で納得させられてしまう。むしろ後期は作画面はともかく脚本や演出がいろいろとアレだが、声で半分以上カバーされてしまうという、まさに銀河声優伝説の名にふさわしい出来。
 こんなこと言ってたらアニメをまた見たくなってきた。でもDVD版はリテイクカットが気にくわないんだよなー。80年代のセル画に突如として差し挟まれる00年代のデジタル彩色。耽美系の絵柄がのっぺりしたものになってしまうのは、まあしたかないとしても、デジタル特有のテカテカした色味がまったくそぐわない。せめて現在のようにセルに近い彩色になってから修正してほしかったな。

マッハ!!!!!!!!

 これ見たかったんだよー。ありがとう木曜洋画劇場。
 「ノー・スタント、ノー・ワイヤー、ノー・CG」を売りにしたアクション映画。盗まれた仏像を取り戻すため、古式ムエタイの修行を積んだ主人公が都会へ出かけてエンヤコラ。邦画にはもうない泥臭さ、汗臭さがいい感じでごわす。あと、単純にハッピーハッピーな終わり方でないのもいい。
 マトリックスや少林サッカーのような、CGやワイヤーをフルに活用したアクションが主流のなか、極限まで高められた肉体だけが可能とする生(なま)の殺陣は凄まじい迫力だった。これぞまさに鋼の肉体。まさに木曜洋画。いやあ、実にいいものを見せてもらった。

夏目友人帳1話

 蝉の声を聞いた。夏である。
 今日はさすがに暑さで気分を悪くした。八分袖の服を着ていたのだが、手首のあたりでくっきり皮膚の色が変わっていた。また見事に焼けたものだな。
 涼を求めて帰り際図書館に寄る。となれば、何かおもしろげな本はないかと、ついふらふら書架を物色するわけで。とても本など入らない小さい鞄しか持っていないのに、4冊ほど借りてしまう。まずいことに財布の中には利用者カードを常に入れているので、障害などないのであった。
 おかげで、今日はくそ暑いのにくそぶ厚い本を4冊も抱えて帰る羽目になった。自業自得である。今度からは手提げ袋も常備しておこう。

 夏目友人帳が面白いと聞き、読んでみたいと思っているうちにアニメ化決定の報が流れ、それでは放映前に読もうと思っているうちにアニメが始まってしまった。こうなったら原作に手を出すのは放映が終わってからにするか。
 原作の評価が見るきっかけだったこともあり、スタッフや出演者がだれかということはあまり知らずに見た。おかげで、突然出てきた井上和彦に思いっきり足を取られる。
 しかも当初登場した招き猫の姿では声色を変えており、真の姿になったときにあの声になるという二段構え。なんとおそろしい罠だ。私が声だけで引っかかる数少ない声優が井上和彦だと知っての所業か。というわけで視聴決定。

おおきく振りかぶって10巻

 RDの録画を失敗した。わははは。チクショー!

 10巻のキーワード。「対比」
 部員はたったの10人、しかも1年生ばかり、と数字のうえでは弱小チームのように見えるわれらが西浦高校硬式野球部だが、実際はそうでもない。
 投手、三橋廉。独学で身につけた4つの球種と、どんなときでも失わない制球力はピカイチ。
 捕手、阿部隆也。脅威の記憶力と分析力を併せ持った頭脳派捕手。上位打順に座れる打力もある。
 三塁手、田島悠一郎。四番はまかせろ。持ち前のセンスでどこに置いても様になる、まさにスーパースター。<贔屓目
 突出して目立つのはこの三人だが、「普通に」よくできる花井、バントに関しては百枝も絶対の信頼を置く栄口、ミスのない巣山、と能力面だけを見れば充分すごいチームだ。と、思う(なにしろ素人なので自信がない)。田島かっこいい。
 一方で、チームの総合力はかなり弱い。なにせ、誰か一人でも抜けたらとたんに公式戦をしのぎきれる力がなくなるのだ。作中でさんざん繰り返されているように、まともな投手は三橋しかいないし、攻撃の柱である田島が欠ければ点を取れない。だからこそ百枝は花井を育てようとしているのだし。そして阿部だ。三橋のすさまじいまでの制球力は、阿部の執拗な配球と組み合わさって絶好の力を生み出している。ロカの台詞にもあるが、阿部が崩されると西浦にとっては大きな痛手となるだろう。
 ここで思い出さなくてはならないのが、1巻で阿部と三橋が交わした「約束」である。阿部は「三年間絶対に怪我も病気もしない」と言った。物語で絶対という言葉が出てくるとは、いつか「絶対に」それが試されるときが出てくるということだ。そのとき、阿部の言葉にすがり、阿部が受けるのでなければ自分はダメだ、と思っている三橋ははたしてどうなるだろう。
 つまり西浦は能力の高い選手を擁してはいるものの、全体的に見ればもろいチームなのだと言える。

 そんな西浦と3回戦で対戦した崎玉高校は、まったくもって普通のチームだ。頭使って野球をしてなくて、主将は優しい先輩で、場外ホームランを叩き出せる佐倉大地という選手のいるチーム(かつて百枝は言った。不思議とどんなチームにもいい子が一人か二人は入る)。
 けれども、崎玉はただ弱いだけのチームではなかったろう。佐倉の絡まない得点が半分あった、つまり点を取る力と勢いは充分あったのだし、守備でも西浦をたびたびおさえている。だが崎玉は「桐青と百回やったら百回ボロ負けするチーム(市原)」で、西浦は「あと十回やったら十回ボロ負けするかもしれないけど、今は勝ってる(栄口)」チームだった。それが事実かどうかは大きな問題ではない。選手本人の意識がそうだった、というのが両者の最大の差だったように思われる。
 さてこの崎玉戦は物語にとってどんな意味があるのだろうか。もちろんひとつは、いまだ田島の下でくすぶる花井が吹っ切れる過程を描くことだ。できるかどうかはともかく、花井が田島を追おうという意思を持たねばチームの攻撃力が育たないのだ。ああもう田島かっこいい。
 試合中、うじうじと悩んでいた花井の背を押したのは三橋である。三橋本人はわかっていないだろうが。三橋の、自分の居場所を死守しようという思いから出た言葉が、花井の心を決めさせた。悩んでもいい。追いかけて、追い抜こうとする意思が重要なのだ。意思がなければ始まりさえしない。
 それにしても、必要以上にびくつく三橋と、やたらと気を遣ってかれに言葉をかける花井の姿は、チーム内での三橋の立ち位置をあらためて浮き彫りにするものであった。
 1巻、三橋は西浦で「ホントのエース」になる、と決めた。私は「ホントのエース」とは球速や制球力のような実力を差すのではなく、チームの軸となれる存在のことではないかと考えているのだが、周囲が「お前こそエース」と一も二もなく頷いていたとしても三橋本人にまったく自信がない今の状態からすると、まだまだ遠いということなんだろう。でも「投げられればそれでいい」と言っていた三橋が、「オレが打たれてチームが負けるのが嫌だ」に変化したのだから、桐青戦の勝利はつくづく大きなものだったのだとわかる。当初あの勝利は意外だったが、ちゃんと意味があったのだな。

 ところで、三橋は作中で甲子園に行くことがあるのだろうか。私としてはぜひともまさに甲子園の決勝戦、大観衆が注視しテレビカメラが向けられたマウンドに立つ三橋を見たいと思っているのだが。いや甲子園でなくてもいい。三橋には晴れの大舞台にこそ立ってほしい。
 たとえば田島のようなスーパースターなら、どんなところでも否応なしに人目を惹きつけるだろう。榛名ならば、プロという夢のために最大限の努力をはらって、その結果がたとえ悔いあるものだったとしても笑っていられるだろう。かれらなら、自分の力で立つ場所を大舞台にできる。
 だが三橋には、誰もが大舞台間違いないと認めるような場所にこそ立ってほしいのだ。ほかでもない、あの三橋だからこそ意味がある。
 三橋が、西浦が負けるときはいつ来るのか、どう負けるのかと楽しみにしている人間には、こんなことを言う資格もないかもしれないが。

コードギアス14話

 やっと話が動いたよ。ぎあっちょぎあっちょ。
 ネットで、このアニメの特徴は、高密度の情報と展開の速さだ、という指摘を見かけた。なるほど、一理ある。画面に書きこまれた情報、ちょっとした台詞などに伏線が細かく張り巡らされ、本筋には直接絡まない小ネタなども数多く盛り込まれている。私のようにテレビの前にぼけーっと座っているだけの人間には、すべてを把握するのは難しいアニメだ。そのわりに展開がやたら大味で、作品に対して緻密な印象を持たせない。そこがこのアニメの面白いところだと思う。ぎあっちょ。
 とはいうものの、待望の2期が始まって以降、「コードギアス」はどこかつまらなかった。毎週きっちりと盛り上げはするのだが、ゼロの正体がどうした、黒の騎士団がどうした、という話ばかりで肝心の本筋が動いていないように見えたからだ。この1クールは、小さな風呂敷を次々と広げ次々とたたむことに終始していたように思う。しかもその風呂敷は各々が独立しているので、次につながらない。1期はまだ風呂敷たちが連動していて、それが次第に大きなうねりになっていく様を見ることができたのだが。

 このような印象を持つのは、私の興味が「ルルーシュは何を為すのか、この世界とは・ギアスとは何なのか」という点にしかないから、ということもあろう。キャラの動向も生死も、合衆国日本云々もどうでもいいんだな、実際。谷口悟朗はルルーシュという無力な少年の帰結をいかに描くのか、また現実とは違う歴史を辿っている世界とギアスの謎にどう決着をつけるのか。私の関心はそこにしかない。でも今週の藤堂と千葉さんには吹いた。リンゴはまあいい。だがそのベッドはなんだ。
 まあこの14話にしても、これまでほとんど語られなかったギアス研究所がいきなり登場していきなり壊滅、という唐突さだ。1期から続く謎の数々はどう解決されるのだろう。されるよね?
 いや、1期の時点で私はこのアニメをルルーシュが世界を股にかける大魔王になる話だとばかり思っていたのだが、2期の始まり方からすると、箱庭的世界から脱出する物語っぽいので。…これではまるで少女革命ウテナだな。
 しかし2期に入ってからのキャラの消費っぷりには驚いた。意味ありげに登場したキャラが次々に(意味もなく)退場し、後の展開への布石かと思われた描写があっさりと回収・撤回されていく。かと思うと、唐突にハイスペックぶりが明かされた咲夜子のようなキャラもいる。もったない、といおうか、なんでだ?と首をひねっていたが、すごくシンプルな答えにたどりついてしまった。尺が足りないからだ。そうに違いない。
 いやまったく、キャラ主体で見ていたらかなりしんどいのではないか、これは。
 ところで、これは書きながらふと浮かんだ単なる思いつきなのだが、1期と2期で対照構造になってるんじゃないか?だとしたらおもしろいかもしれない。


 アニメの感想を読もうとネットを探していてふと思ったこと。ここ数年、純粋に次週が待ち遠しい!楽しみ!と毎回どきどきするようなアニメに出会っていない。
 もちろんどのアニメも面白いと思っているからこそ毎週見ているのだが、楽しむことを半ば義務化している気がする…。非常にもったいない見方をしているな、われながら。

すごいものを見てしまった

くひだをれ

 人に大阪の絵的イメージを問うたならば、そこにはかならず紅白のだんだら衣装を身につけ、セルロイドの眼鏡をかけた太鼓を叩く人形がいるにちがいない。その名を「くいだおれ太郎」という。
 先日くいだおれが暖簾を下ろした。店の看板人形の太郎も引退ということになった。道頓堀に太郎がいないと思うとさみしい思いがする。いや、私は一度も店に入ったことがないのだが。
 ここ十年ほどで道頓堀の風景は様変わりしてしまった。くいだおれの閉店で、時代の残り香がまたひとつ失われたというわけか。しかし、これほど明るい店の畳み方もめったにないだろう。

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 こんなところでつぶやいても効果はあるのかな、と思いつつ。
 えー、009で当サイトに来ている方なら先刻ご承知の、某Kさんがゼロナイ本を出されます。Kさんといえば事件&アクションものを得意とされるお方。しかも150P超の大ボリューム!とくれば読み応えがないわけがない。要チェックですぜ。

RD潜脳調査室まとめ

 どうも今日は文章が荒れている。これはきっと暑いからだな。よし。<納得するな

 前の記事に続き、またIGアニメの感想である。はじめてRDを見たときは、話運びのまずさとヒロインの声に引っかかったが、ここにきてまともに面白い話が出てきた。
 脚本が悪いのか演出が悪いのか、まっすぐ進めばいいのにどうしてそこで横に折れる?と首をひねる話ばかりだったので、ようやく見ていて良かったという気持ちにさせられた。大西は単純に説明がへたな脚本家だったが、こういうのをなんと言えばいいんだろう。逆に、ギアスはたとえ大状況がまったく動いていなくても毎回小状況が劇的で飽きさせないという点で技術が高いんだよな。
 ヒロインの声も、声優がこなれてきたのかこちらが慣れたのか分からないが、ずいぶん画面になじんできたように思う。
 なんだか今期は、引っかかりを感じつつもいずれ面白くなるだろうから期待して見ている、というアニメばっかりな気がする、というのは自虐的に過ぎるか。

 6話「ラブ・レター」と8話「ノー・フレンド」は、物語の世界観、キャラの設定、ヒロインの特質が筋書きにぴたりと当てはまり、なおかつ話が引っかからずに進んで素直に面白いと言えた。特に6話だ。最小限の説明で「哀しみ」を表現しきっているのが素晴らしい。
 本作にはこういうのが毎回続けられるだけの地力はあると思うので、本当にがんばってほしい。…しかしどっちの話も肝心のハルさんが動いてないぞ。まあこの人の場合は安楽椅子探偵で、状況がやってこないと動けない立場でもあるしなあ。
 また見どころとして、ヒロインのみなもの使い方がうまいというものがある。こうした手合いの物語では賑やかしに留まりかねない彼女だが、直観に優れ、行動力があるという設定が各話できちんと生かされている。黒田は見習え。
 そして個人的に超見逃せないのは、秋田禎信が担当する小説版が今月発売ということだ。これは楽しみでしかたがない。

精霊の守り人13話

 どんなに好きなアニメでも、必ず一度か二度は録画を忘れたり失敗するかして見逃す。7月になり折り返しを迎えたいまのところは、RDでさっそくやらかしたくらいで今期の取りこぼしは少ないほうだ。ギアスはWEB配信があるし、その点安心。
 さて、原作にはないオリジナルの話が続きながらも、他のアニメとは一線を画す出来栄えの「精霊の守り人」である。普通はアニメ独自の話が入ると原作既知の視聴者に違和感をおぼえさせるものだが、このアニメにはそういうところがまったくない。だいたいは変更点に大人の事情が見え隠れしたり、あるいは物語の解釈そのものがなっていなかったりするものだ。飛影はそんなこと言わない。
 監督の神山健治は制作前に脚本に関してスタッフと徹底的に討論すると聞いたし、意図のぶれなさとも言うべきものがアニメ版の作品世界をきっちりと組み上げているのだろう。
 ただ私個人の好みからすれば、お行儀がよすぎて物足りない点が多々ある(が、これは「守り人」に限らずIG制作のアニメ全般に言える(笑))。筋書きが整うあまり物語に余白がないし、説明が丁寧すぎてテンポが悪く感じられるときもある。
 そう思いながら見ていたが、13話「人でなく虎でなく」は素晴らしいものだった。
 筋書きはこうだ。ある事情から死んだと偽り、身を隠していた主人公のバルサだったが、ふとしたことで自分をつけねらう男、カルボに居所を知られてしまう。カルボは過去の怨みから執拗にバルサを追っており、決闘に応じなければ無関係の人間を毎日ひとりづつ殺していくという。
 バルサが呼び出された街道の関門でカルボを待っていると、そこを通りかかった旅人を突然つぶてが襲った。旅人、馬方の少年と先生と呼ばれる女性はバルサのおかげで難を逃れたものの、ふたりはカルボの標的になってしまう。つまり、かれらを守らせることでバルサの力を削いでいこうという策なのだ。街道脇の井戸をつぶし、夜は雇った者のつぶてで眠らせず、とかつて自分がされたのと同じ手でバルサを弱らせようとする。そのうえバルサはつかず離れずで警戒せざるを得ないが、守る対象の馬方には事情を知らぬからとはいえ気味悪がられてしまう。
 一方先生はこの殺気に満ちた女用心棒を不思議に思い、ある昔話を持ち出す。それは、虎のごとき強さを求めるあまり本当に虎になってしまったある武人の話だった。
 翌朝、業を煮やしたバルサの咆哮に応じ、カルボが姿を現した。不殺の誓いを破ると決意したバルサに、怒りに我を忘れたカルボ。竹林の中、目まぐるしい勢いで斬り結ぶふたりの武人が駆ける。いや違う、襲いかかる一頭の虎をカルボがあやうく凌いでいるのだ。
 そして凄まじい勢いで繰りだされたバルサの短槍は、一瞬にしてカルボの体を斬り裂いていた。なんということを、とおののく先生に「うるせぇッ!私は虎だ!近寄ると食い殺すぞ!」と凄むバルサ。戦いの勢いのまま、荒々しく立ち去るその背後で、斬られたはずのカルボが茫然と身を起こしていた。しかし先ほどとは別人のようで自分が何者かも分からない様子。おそらくバルサが斬ったのは、血肉を持った体ではなく妄念や心の類だったのだ。それを伝えようと、先生と馬方がバルサを追おうとする…というところで今回の話は終わっている。

 業と虎、というモチーフから中島敦の「山月記」を思い起こさせるが、この話は「山月記」のように切り離せない業ではなく、業を斬る刃が中心になっている。しかもそれは単純に不殺の誓いによる清い刃によってもたらされたものではない。虎と化すほどの業によってバルサはカルボの業を斬り得たのだ。このときのバルサが、これまで画面に描かれていた、力強くてものわかりの良い、ハードボイルド小説の主人公さながらの人間ではないことは、先生に向かって叫んだときの口調からも分かる。
 もうひとつ重要なのは、バルサは自分の槍がカルボの命を絶たなかったことを知らない、ということだ。もしかしたら次回で知ることになるかもしれないが、この時点でバルサが業にまみれて虎と化した状態だというのはなかなか暗示的なものがある。
 私はこんな話を見たかったのだ。チャグムが土とともにある生活に慣れ親しんでいったり、原作では薄っぺらい帝やサグムがどれだけチャグムを慈しんでいたかを描くことも重要だ。しかし、そうした「丁寧に原作をアニメ化した」よりも一段飛び越えた描写を見ることができて、とても嬉しい。

 (7月11日追記)この話の感想を探そうと、ネットを軽く検索してみたら、おもしろい指摘があった。カルボはバルサに一度敗れて以降、得物をヨゴ刀からバルサと同じ短槍にしたと言っていたが、なんと服装や髪型もバルサと同じにしていたというのだ。なるほど、つまりこの話の中で虎の皮を被り、本当に虎になろうとしていたのはカルボの方だったのだな。

ノーモア冷房

 7月に入り、うだるような暑さが続いている。おかげさまで当地も場合によっては沖縄より気温が高い。これもヒートアイランド様様だ。…もう亜熱帯でよくないか?
 そのうえ昼間も長袖、寝巻きも長袖という生活が暑さに拍車をかけている。肩こりがひどいので冷やしたくないのだ。毎晩暑さで体力を削られているが、これは単純に気温のせいなのか、それとも長袖を着ているからなのだろうか。
 睡眠不足が続いていることを考えると、冷房を入れたほうがいいのだろうけど、そちらをあまり頼りたくはない。もともと冷房にしろ暖房にしろ、エアコンというやつは苦手だったところへ、昨年は冷房で体を壊してさらに苦手意識が強くなってしまった。が、しかし暑いことには変わりはないわけで。むぅ、これではにっちもさっちもいかぬ。
 しかたがないので熱いお茶を飲んでやりすごすのであった。

音楽はわからないけども

 某さんとマクロスFの話になったので、調べてみたらやはり今堀恒雄も劇伴に参加しているようだ。マクロスFは菅野よう子が担当しているからおそらく参加しているだろうと思ったけど(しかしこの二名の接点は、やはりカウボーイビバップからなんだろうか)。サントラ購入に少し心が動く。<その前に今堀本人のCDまだ買ってないやろ
 アニメ方面ではGUNGRAVE以来手がけてないが、来年公開予定だというTRIGUNの劇場版はもちろん今堀が担当するんだよね?ね?!
 しかし劇伴とそうでないときは雰囲気が結構違うんだよな。と、いうか本業のときの音楽はさっぱりわからん。ティポグラフィカ時代のアルバムも一枚持っているが、本当にこれはわからない。変すぎて(笑)。どっちにしろ音がかっこいいので好きなんだが、TRIGUNを通じて知っているのでなければ心惹かれていたか?というと首をひねる。それくらい、私には音楽にたいする感性がさっぱりないのである。
 でも劇伴とは区別つけてる、というか劇伴では物語性のある(シーンにつけやすい)曲にしているのは仕事に徹しているからなんだろうな。確か、アニメ版GUNGRAVEのムックのインタビューでもそのようなことを言っていた。
 なんにしろ次の仕事が楽しみである。

「女神伝」子世代編が

 拍手いただきました。ありがたやありがたや。

 須賀しのぶの公式サイトをひさしぶりに見たところ、なんとも嬉しいニュースが。「流血女神伝」子世代編を来年開始予定だそうな。もちろんあくまで「予定」の段階ではあるのだけれど、一応は本決まりの段階にあるということだろね。しかも、というか予想通りというべきか、舞台はエティカヤ。となれば登場するに違いないバルアンは準主役だという。これは今から期待に胸ふくらませてしまう。ザカール編の結末から、アフレイムが成長するにつれあらわれるであろう、バルアンとの葛藤に満ちた父子関係を妄想してはにやにやしていた私である。鬼に爆笑されても構うものか。
 まあファンとしては完全燃焼してから天に召されてほしかったところではあるのだが、みずから生み出した暗い妄念の炎に身を焼き、周囲を恐怖に陥れる暴虐の王となるのかと思うと楽しみでならない。そりゃもう存分に道を外してほしいところだ。