記事一覧

福本作品考・「仲間」編

 アニメ「アカギ」を皮切りに福本作品に触れてから3年ちかくたつ。だというのに、私にとって福本作品を語ることはますます難しさを増すばかりだ。なにをどう書いても、本質をとらえていない気がしてならない。
 関東より遅れつつアニメ「逆境無頼カイジ」が当地でも放映を終了して約2ヶ月、福本を語る余裕が出てきたので、少々考えていることのメモ書き程度と己に言い訳して記してみよう。以下、シリーズのネタバレを含む内容となる。

 現在のところ、私が福本作品を解くキーワードにしているのが「仲間」だ。「賭博黙示録カイジ(以下「黙示録」)」での仲間というものの描写に違和感を持ったのがはじまりだが、現在マガジンで連載中の「賭博覇王伝零(以下「零」)」でも同じような違和感、つまり福本作品において「仲間」とはどのような意味合いを持っているのか?という疑問がわいてきた。
 「黙示録」とは、主人公・カイジが借金返済のために客船エスポワール号に乗りこむところから物語が始まる。船内では一夜にして大金を手に入れるか、文字通りの生き地獄に堕ちるか、二者択一のギャンブルが開かれていた。ここから「破戒録」「堕天録」へと続くカイジの物語がスタートするわけだが、注目すべきはカイジが体験するほぼすべてのギャンブルは「仲間」の存在を前提としていることだ。もちろんひとつひとつのギャンブルにおいて主たるプレーヤーはカイジであって、そこにチーム戦の形式は見られない。カイジと対戦者が一対一で争う、というのがフォーマットとなっている。
 しかしカイジがプレーヤーとして場に立つためには必ず誰かの協力が必要である、という状況が常に作り出されている。限定ジャンケンでは安藤と古畑によってはじめてゲームに参加することができたわけだし(おそらくそのためにカイジは船井に騙される必要があった)、Eカード、地下チンチロや沼は言わずもがなだ。では17歩はどうか。「堕天録」では「破戒録」でカイジ側だった三好と前田が裏切るという展開を見せる。しかしあれも仲間がいる、という建前があって成立したゲームであり、途中からは坊ちゃんの協力なしには続けられなかった。鉄骨渡りも佐原の落下があったからこそカイジは渡りきることができたという点に、他者の協力を見ることができる。
 唯一カイジが誰の協力もなしに、つまり「仲間」なしに挑んだのがティッシュくじである。このときEカードのときからいたギャラリーは最初から最後まで、ただ状況を説明するためだけに存在しているように見える。真の意味で一対一で挑んだ結果が完膚なきまでの敗北というのは興味深い。
 一方で、カイジには少年漫画的命題の「仲間」は誰一人いないのも事実だ。かれらは常にその場限りの協力者であるか、物語の舞台から脱落するかして、気楽に辞書的な意味を謳歌する存在ではありえない。むしろ「零」を読むと、福本作品における「仲間」とは安藤と古畑のように、「主人公が常に危険に迫られている」状況を設定するためのものだと思えてくる。
 さらに「仲間」という言葉に違和感をおぼえさせられるのがEカード編だ。あらゆる意味で格上の対戦者、利根川との勝負の最中、カイジはギャラリーを見て自分はひとりではない、仲間がいると感じている。はたして本当にそうだろうか?もちろんその後、かれら有象無象のギャラリーが展開上大きな役割を果たすことは本編を読めば分かることだが、この時点ではただ苦戦するカイジを(肩入れしているとはいえ)「見て」いるだけの存在である。そうした一種無責任な人間を「仲間」と呼んだカイジの考えは、いや、そう呼ばせた福本伸行の仲間という言葉に対する観念はいかなるものなのか。
 すなわち、その後で「装置を隠し持つ」役をおおせつかされる、つまり状況を動かす役を与えられるからこそ、福本伸行はギャラリーを仲間と呼ばせたと考えられるのだ。チンチロ編や沼編でのギャラリーはそのような呼ばれ方をされず、状況に関わらない無責任な人々のままでいることはその反証といえる。福本作品における「仲間」とは、状況を動かすコマのようなものであって、登場人物たちが協力して事に当たる関係性、信頼のようなものではないのだ(この点、代表作の中で辞書的な意味での「仲間」にあたるのは「銀と金」での平井一党のみではないかと私は考えている)。
 では現在連載中の「零」をみてみよう。「零」はめずらしく主人公が「仲間」とともに登場した作品だった。もっとも、かれらは仲間というよりゼロの配下といった印象は否めなかったが。当初仲間の存在は、描かれるゼロの未熟さとともに、少年漫画のフォーマットを意識的に使用するのかと思わされた。だがすぐにその予想は裏切られる。ゼロは仲間の協力で事に当たることは一切ない。なにより本人が「三人単位でのゲームならオレがみんなを守れる」と発言していることからも、かれらはあくまで保護の対象、悪意的に言いかえればゼロの足を引っ張りかねない存在として設定されている。魔女の館編においても、ゼロ以外の20人はかれの決定に無条件に従うことがわざわざ明言されるし、なおかつ恐怖にかられて危機に陥らせさえするのだ。ある意味ではカイジ以上に独立独歩の主人公であるといえよう。

 福本を考えるうえでのもう一つのキーワード「同類」についてはいつか書けたらいいな。

書いたものの話

 数日間に渡り、ここになんだかすさまじくデムパ漂う代物が記載されていたが、恥を忍んで申し上げるとあれが「地」なのである。私の場合、考えることをせず、ただただ思うがままに文章を書きつらねると読み手の理解とかいうものをあさっての方向に投げ捨て去ったものとしかならない。ので、書いている間はずっと「これはどういう話か」を最低限読み手に伝えるべく気をつけなければならないのに、たまにこういうことがある。申し訳ない。

その他雑感

 拍手いただきました。ありがとうございます。

 「スカウト」以外にも本を読んだり、アニメも見たりしているので日記のネタには事欠かないのだ、実は。さらには「おお振り」10巻の感想もいまだに書いていない。しかたないのでおお振り以外は適当にまとめることにした。

「打撃の真髄 榎本喜八伝」松井浩
 安打製造機。そう呼ばれる選手はイチローをはじめ数多くいた。これは日本で最初にその称号を受けた選手の伝記である。
 Wikipediaの記事で興味を持って読んでみたのだが…。まず文章がよろしくない。文章だけでいえば、同じ榎本を扱った沢木耕太郎の「さらば、宝石」の方が優れている。しかしながら、本書は榎本喜八本人にインタビューし、なおかつ自身も呼吸法などのトレーニングを行っており、少なくとも「身体の言葉」で語ろうとしている点では価値があると思われる。だが描写は、いかんせん榎本の語った「神の域」に肉薄しているとは言いがたい。榎本が見た世界はオカルティックな語り口では表しえないのではなかろうか。

「喪男(モダン)の哲学史」本田透
 かなり挑発的な語り口で有名(たぶん)な本田透の力作。いや、本田の著書はこれしか読んだことないんだけどさ。ネットなどで感想を読む限りでは「本田はなにをおびえているんだ」という印象があったが、実際に読むとかなり巧妙だということが分かった。実際に哲学科で学んで基礎ができているからかもね。
 かれの本意はデリダの注釈(p.232)で述べているように、哲学を「喪」だの「モテ」だのといったキーワードで「ズラし」、脱構築することにある。だが、その「ズラし」にまったくもって余裕がないのでつっこみどころ満載な論にしあがっている。
 それにしても表紙が沙村広明かよ!

「真っ向勝負のスローカーブ」星野伸之
 著者の星野は元プロ野球選手である。130km/hを切るストレート、90km/h台のスローカーブとフォークボールしか持たない投手、星野はいかにして華々しい活躍をあげたのか。なにせスローカーブを素手でキャッチした捕手が、そのまま140km/hの剛速球で星野に投げ返したというエピソードまであるからすこぶるつきだ。おお振り読者なら三橋も一流の投手になれるかも、と希望を抱けることうけあい。

「スカウト」後藤正治

 勉強、というかややネタ拾いの意味合いもあるが野球関係の本を読んでいる。ルールブックやらテクニックやらの話になるとまだまだ敷居が高いので、手に取るのはもっぱらスポーツ・ノンフィクション、伝記といった間口の広い方だ。
 今回読んだ「スカウト」は、戦後まもなく、まだスカウトという言葉もなかった時代から40年間を送ったある人物にスポットを当てた作品である。その名は木庭教。広島カープ、大洋ホエールズ、オリックスブルーウェーブ、日本ハムファイターズと四つの球団に在籍し、常に第一線で有望な新人を探し全国を歩き回った人物だ。
 市民球団として発足したカープに入団した木庭の仕事は、その性格上資金面で劣らざるをえない環境の中で、いかに埋もれた才能を探し出し入団させるか、ということにあった。鍛えぬかれた木庭の眼力はやがて「スカウトの神様」と呼ばれるようになる。
 しかしあまり辣腕という言葉が似合わない気がするのは、おそらく後藤が描き出す木庭の人柄のせいだろう。手がけた選手を入団しれからも気づかい、ときには退団後の身の振りかたまで世話したりもする。プロ野球選手となったものすべてが成功するわけではないのだ。生涯二軍で終わるもの、故障や病気で数年で解雇される若者もいる。スカウトがかれらに「最後のチャンス」を作ってやったり、球界外の仕事を紹介することは珍しくないそうだ。ある人物は、野球関係者で年賀状を出すのは木庭さん宛てだけです、と語る。
 後藤は各地を飛び回る木庭に同行し、取材に4年をかけて本書を執筆した。高校野球、大学野球、社会人野球…。春から秋にかけて、日本ではなんとあらゆるところで試合が行われていることだろう。
 取材の過程では、もちろん他球団のスカウトとも顔を合わせることがある。試合の寸評、茶飲み話をしながらも、かれらはけっして腹の底を見せたりしない。しかし、ラジオのニュースでだれかが手がけた選手の活躍が報じられると互いに祝福しあったりもするのだ。
 後藤の取材対象は、木庭が手がけた選手はもちろんこうした他球団のスカウトにもおよぶが、かれらスカウトから見た野球の世界は、観客が一喜一憂する試合とはまた違った面があることを教えてくれる。

 この感想を書いている間に、本書の主役たる木庭教氏が亡くなられたというニュースを知った。読了してまもなかったせいもあろうが、ものさみしい思いがする。

ショックだ

 氷室冴子さんがお亡くなりになられたそうで…。
 なんかもう、とにかくショックだ。

まが(略)

 柳岡帰っちゃった。

 エネルギーすっからかんなのに、とりあえず柳岡についてはなにかコメントを残さねばなるまい、というこの気力はいったいどこからくるのやら。

 あと今週は「トッキュー!」もよかったヨ。