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そして続く道 - 邪魔

 ユーシャラは、ベッドの上に立ち上がり、そうしてほとんど額に汗しながら、回りを囲う柵をよじ登って越え、危なっかしい動きですとんと床へ飛び降りた。
 床に体が届いた瞬間によろけ、見事に小さな尻もちをついたけれど、特に痛みは感じず、そのままよろよろと立ち上がって部屋を出る方向へ体を向ける。
 近頃急に手足の力がついて、走り回るのが楽しくて仕方がない。とは言え、まだまだ頭の大きいバランスの悪さはどうしようもなく、ユーシャラ本人が思っているほど、それは見事なものでもなかった。
 真っ暗な廊下を進んで、ふたつ目に見えた扉の前で足を止める。ここへ来たばかりの頃は滅多と閉まっていることなどなかったのに、最近は開きっ放しの方が少ない。
 ユーシャラは、ひとまず扉の表面を撫でた。
 寝間着の裾を握って、中から反応がないかと待つ。自然に、空いた方の手の人差し指が口の中へ差し込まれる。扉は開かない。
 静かな家の中で、扉の向こうから、かすかに息づかいが聞こえて来る。寝息とは違う。抑えた、短い間隔の、何かいやな気分の時にユーシャラもそうするような、そんな息の仕方だ。
 ベッドの上を、体の重みが移動する音。扉を透かして、黒い影が動いているのが、ユーシャラの目にははっきりと見えた。
 自分を抱き上げて、抱きしめてくれるふたり。大きな男と、それほどは大きくはない男。
 大きな男はシャッコと言う。ユーシャラはその名をきちんと呼ぶことができる。シャッコの言葉は明瞭で、彼との会話はそれほど難しくはない。ユーシャラが声を掛ければ必ず振り向いて、長い腕の中に抱き上げてくれる。その体にしがみついて胸や肩に上(のぼ)るのが、ユーシャラは大好きだ。
 もうひとりはキリコと言う名だ。シャッコの名と違って、その名前は舌がうまく回らない。何度呼んでもシャッコに直される。シャッコの言う通りに呼んでいるつもりなのに、滅多とその名をきちんと呼べない。キリコはけれど、そんなことは気にしていないようだ。そもそもキリコは、ユーシャラのことをあまり気に掛けない。笑い掛けられることはないし、話し掛けられることもほとんどない。彼の言葉は、ユーシャラにはよくわからない。
 ふたりが傍にいないと、不安になる。置き去りにされると思うわけではなく、ただ何か、ふたりがふっと自分のことを忘れ、ふたりきり目線を交わして、ユーシャラにはまったくわからない、聞こえない言葉を伝え合う時に、不意にふたりの周囲で濃くなった空気がふたりだけを囲い込んで、ユーシャラはひとり閉め出されたような気分を味わう。
 そうなれば、もうユーシャラの声はふたりには届かず、ひと時、ふたりはこの世界にふたりきりしか存在しないように振る舞い、それは決して不快ではないけれど、いつもユーシャラを必ず不安にさせた。
 そこへ立ち入ってはいけないのだと、ユーシャラの中で、ひどく大人びた声がする。それはユーシャラ自身の声のようでいて、まったくそうではなく、けれどその声に従うべきなのだと、ユーシャラのまだ幼い脳はきちんと理解していた。
 扉の向こうで、ひとつになっていた影が一瞬ほどけ、ふたつになってすぐまたひとつに戻る。息づかいはキリコのそれの方が間が短く、シャッコの方はまるで息を止めているように、間遠に伝わって来る。
 ふたりの呼吸のせいで、そこだけ酸素の薄くなった空気は、けれど濃くふたりを取り巻いて、明らかに今はユーシャラを拒んでいる。
 邪魔をしてはいけないのだと、頭の中であの大人びた声が言った。
 瞳の焦点が合い、世界と言うものに気づいた時には、ふたりが自分を見下ろして、代わる代わる抱いてくれた。他の大きな──キリコよりは小さい──人間たちが、柔らかい腕に抱いて甘い良い匂いをさせて、ユーシャラに頬ずりをしてくれたこともある。
 大切にされているのだと知っている。周囲の人間たちには、ユーシャラは常に彼らの世界の中心だった。
 それでも、ユーシャラがひとりで置かれている時に、彼らは自分たちだけで肩を寄せ合い、ユーシャラにはよく分からない言葉を、理解できないやり方で交わし、ユーシャラの世界を隅に追いやって、何かユーシャラの知らない愉しげな振る舞いに浸っている。
 それは自分には関係のないことなどわかっていて、それでもつまはじきにされたような気分は救えず、それを、嫉妬と呼ぶのだとは、まだシャッコからは言葉を教えられてはいず、身内にたまるその気持ちを、どこかにぶつけずにはいられない、ユーシャラはまだただの子どもだ。
 この間まで赤ん坊だったのだから当然だと、たとえば母親と呼ばれるような存在があれば、触れ合う皮膚越しに教えてもらえるのだろう。けれどユーシャラに母はなく、シャッコとキリコは父親でもない。
 扉の向こうで、シャッコがキリコに何か言った。キリコがそれに応えて何か言った。ユーシャラの知らない方──標準アストラギウス語──の言葉だ。低めた声、ひそやかな気配、自分の話し掛ける時の、優しいささやき方とはまた違う声音のそれで、シャッコがまた何か言った。
 しっかりと閉じた扉の向こう側で、ユーシャラのことなど忘れたように、ユーシャラのここにいることなど知りもせずに、ふたりの影はひとつになったりふたつになったり、まとまったりほどけたりしている。
 それが、普通の子どもには扉越しになど見えるはずもないことを、ユーシャラはまだ知る由もなく、見えるのに手の届かないふたりが、閉めた扉でユーシャラを隔てているのが急に我慢ならなくなる。
 扉を開けるためのノブには、どんなに背伸びしても届かない。それを回せばこれが開くと知ってはいても、実践できるのはもう少し先のことだ。
 なろうと思えば世界の中心になれるのに、自分は恐ろしいほど無力だ。目の前の扉ひとつ自分では開けられない。
 意地悪をする気ではなかった。それでも止まらずに、ユーシャラは急に襲って来た淋しさに耐えられず、声を放って泣き始めた。自分の泣き声が、ただちに中のふたりだけの世界にひびを入れるのだと、もちろん承知の上だった。
 影がふたつに分かれ、そしてそのまま、大きな影の方が素早くベッドから足を下ろした。立ち上がるまでにさらに5秒、扉へ向かって来る大きな歩幅は間違いなくシャッコだ。
 中へ扉が引かれ、目の前の闇がふたつに割れて、そこへ一際濃い人影がそびえ立った。シャッコの白い顔が、ユーシャラの泣き顔を見下ろしていた。
 「どうした、ひとりで抜け出して来たのか。」
 ユーシャラは、口の中に左手の指を全部差し入れて、食むように口を動かしている。きちんと答えないために、口を隠すのに絶好の仕草だ。泣きながらうなずくと、シャッコが長い腕を伸ばして抱き上げてくれる。大きくて硬い肩に頭を載せて、ユーシャラは泣くのを止(と)めた。
 ちらりとシャッコの肩から見ると、シャッコのベッドに、体を起こしているキリコがいる。怒っているようでもなく、訝しんでいるようでもなく、ユーシャラのことを、迷惑がっている風でもない。もっともキリコは、大抵の場合無表情だ。
 シャッコの肩に額をすりつけて、ユーシャラは太い首にしがみついた。
 「眠れないのか。」
 背中を撫でながらシャッコが訊く。ユーシャラはわざとそれには答えずに、突然シャッコの腕の中で体を跳ね、下へ降ろせと騒いだ。
 ユーシャラを押さえ込むなど、シャッコには雑作もないはずだけれど、乱暴に扱うわけには行かない幼児を、シャッコは素直に床に降ろして、ユーシャラは途端にシャッコの脇をすり抜けて部屋の中へ走り込み、キリコのいるシャッコのベッドの端へ飛びついた。
 握ったシーツがずるりと引っ張られたのを、キリコが咄嗟につかんで、そのまま負けの決まった綱引きのように、ユーシャラはベッドの上に引っ張り上げられた形になる。
 伸びているキリコの脚の間に這い寄り、裸の胸に抱きついた。ふた拍、キリコの腕が迷って、それからユーシャラを抱いた。
 「おれが連れて行く。」
 シャッコがキリコに言い、ユーシャラの小さな背を抱き取ろうと腕を伸ばす。ユーシャラはそれに気づいていっそう強くキリコにしがみつき、ここから連れて行かれまいと、また泣き出す準備をした。
 「ベッドに戻してもどうせまたすぐ抜け出して来る。部屋に外から鍵でも掛けた方が良さそうだな。」
 キリコの言っていることはわからない。極めて現実的な、けれど物騒な提案であることが理解できないのは、ユーシャラには幸いだった。
 「・・・それは冗談だな?」
 半分は疑わしげに、シャッコの語尾が奇妙に上がった。
 「当たり前だ。」
 切り捨てるようにキリコが応えて、
 「おまえはそっちで寝ろ。」
 ユーシャラに向かって、自分のベッドを指差して見せる。きれいに整えられたまま、今夜はまだ使われた形跡のないキリコのベッドへ、指差されるまま視線を向けて、言葉は分からなくてもキリコの言うことは理解できたので、ユーシャラはあごを胸元に深く埋めて、こっくりとうなずいた。
 「よし。」
 キリコはユーシャラをシャッコの方へ差し出し、シャッコに受け取られたユーシャラは、キリコのベッドへ、荷物のように移動させられた。そして荷物のように、薄い毛布の下へきっちりとたくし込まれ、頭を乗せた枕は、ユーシャラがいつも使っているものよりずっと大きくて、そしてキリコの匂いがした。
 キリコはもうこちらに背を向け、ユーシャラがどこで寝ようと関係ないと言うように、さっさと寝る準備に掛かったようだった。
 シャッコはユーシャラの額に手を乗せて、
 「お休み。」
と、クエント語で言った。おやすみと、ユーシャラもクエント語で返した。親指を口の中に入れ、シャッコが、キリコの背に重なるように自分のベッドへ戻ってゆくのを見守る。
 シャッコの体の陰に隠れて、まったく見えなくなったキリコの背中へ向かって、ユーシャラは一度親指を口から離して、
 「おやすみ。」
 キリコがいつも自分にそう言う通りに、それがアストラギウス語だとはまだ知らずに、ユーシャラは少しだけ声を張った。
 ユーシャラの声が、薄闇に吸い込まれてすっかり消えてしまった後で、
 「お休み。」
 キリコの声が、何の感情も込めずに平たく返って来る。
 シャッコの腕がキリコへ回る。それを見てから、ユーシャラはまた親指を口の中に戻し、キリコの枕に頭を埋めて目を閉じた。

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