お帰りくださいませ! ご主人さま!

5月 26, 2010

歴史を客観的に語ることはできない。

私です。高々60年、されど60年。
絡んできた場合は別だけど、他国の歴史観をあえて否定するのはアホのすることだと思うの。
信じている限りはそれが真実、それが歴史。
何故ならその記録が一秒前の出来事だとしても、自分が見ていない限り主観にはなりえない、見ていたとしても自分に関連がなければやはり客観でしかない。
客観的に歴史を綴るのは当事者でなければ不可能。

まーだからといって全ての歴史書が無駄かといえば違うけど、やはり一考するべきだと思いますよ。
悟るのはとても簡単なのに、未だ悟っている人が多いとは思えない。
自分以外は全てうそなのだ。
だからじんるいはおろかなのである。

どんなものにも意味があり、またどんなものにも意味はない。

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愛のベツレヘム

4月 11, 2010

異常な環境で生まれつつも、一瞬も洗脳されずに「考える目」を持って生まれた私は生粋の思考屋なのかもしれぬ。
とにかく思考して答えを出す。
子供でありながら、理不尽を理不尽と捉える目。
かなり小さい頃から分別があったし、事実親もそう言っている。
私の思想の根源が分からない。
動物的な成長が持論だけど、自分の性格形成がどう行われたかがまったくわからない。
もちろんこれは答えが出る物ではないから考える意味のない事柄だけど、やっぱり不思議。
不思議な不思議な池袋。

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できること、できないこと

4月 2, 2010

毎日六時間以上費やし、半年やって上達しなかったとしても、それは努力不足です。
何が「できない」かなんて、簡単にはわかりません。

「できない」というのは「できる」までやらなかった事のいいわけ。
「できる」までやれば「できない」ことは何も無いのです。

たとえ「できない」ことがあったとしても、諦めない限り「まだできていない」だけです。
「できなかった」ことは、死んで初めて見えてくるんです。
死ぬまで全力で努力して「できなかった」ら、それはできなかったのでしょう。
でも、きっと周りの人から見れば「できる」に見えるはずです。

勝てば負けない理論、私は好きですよ。

私は「才能とは努力の結果」という答えを導き出しましたが、それは俗に卑屈に使う「才能」に対する答えであって、字面でもともとそういう意味だと表している事に気付きました。
今更だなあ。
「血」とも解きましたが、私の相対理論で考えると、これほど曖昧なものはないというですね。
要は結果が全て。死んだ時の。
死人に口無し、つまりはそういう事ですね。

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伝説のコンビニは不況のあおりを受けて閉店しました

3月 20, 2010

高校の時からだけど、どうにも私には「学校を卒業して働く」というのが理解できない。
業種にもよるけど、大抵は学校の勉強など役には立たない。
ならば、学校は必要ないんじゃないだろうか。
逆に役立てるのなら働く必要がないんじゃないだろうか。
この理論の中に矛盾は存在しない。
それでいて面接の時には「入社時の利益」だとかを聞かれる。
学んでいないのだから、利益が生まれるはずがない。生まれるのだとしたらそれは労働力だけ。それ以外はありえない。

何が言いたいのかといえば、誰でもできる仕事を選ぶ奴は学校に行く必要がないということ。
働きたいのなら、働くための学校を作るべき。
逆に働く事を教えないのなら、働くのが主流の現代の風潮はおかしい。
勉学に励むものは皆平等に保護されるべきである。
志持たざる者は働けばいい。

何を学ばせているのかと訊かれて「協調性」やら「努力・忍耐」やらと答える教育者は皆死ぬべきだ。
「学ぶ楽しさ、または入り口を教えている」で及第点。
昔からベタな中二病として「何故勉強しなければいけないのか」という問いがある。あれは正しい。
勉学の道に進むのなら、労働の必要はないからだ。
誰もその正論に答えられず、中二病の一言で済ませてしまう社会こそ歪んでいるのではないだろうか。


私はよく悟りという言葉を使いますが、これは肯定的な意味で使っているわけではありません。
否定的、もしくは諦観を持って使っています。
全てを諦観し、愚かしさを指摘する気にもならない境地、それが悟りなんだと私は思います。
仏教ではオブラードに包んでいますが、要するに「人なんて価値ないから勝手に滅びちまえ」と言っています。
悟りを覚える、即ち覚悟する──それこそが仏教の説く解脱であるはず。
それを私は死と説く。
何も見ず、何も考えず、全てに目を瞑る。

私は悟った上でなお事実に目を瞑り、生きる。
何故なら、悟りすらも無意味だからである。
何事も無意味で、等しく無価値であるからこそ私は生きられる。
絶望する必要はどこにもない。絶望する望みがないのだから、しようがない。
それに気付いてこその、アホな悟り。
知ってしまえば生きるために働くなんて馬鹿らしいと思う。

終末思想とも違うし、従来の悟りとも違って、私の悟りは論理を組み立てた悟りだから、誰にでも分かりやすく説明できる。
納得できる人がどれだけいるかは分からないけど、矛盾はない。
世が世だからいくらでも布教できるんだろうけど、悟ってしまえばそんな事も必要がないと自分で否定できる。
自分も納得させられる、どんな理不尽も自分に押し付ける事ができる。
最高にステキでクソな悟りだよ、ホント。

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厄年

3月 19, 2010

二十四歳の誕生日というわけで、嬉しくもなんともないわけで。
と思ったらおめでとうと言ってもらえて嬉しかったり。
厄年それ即ち年男というわけでもありまして、悟りを覚えて初の誕生日。
それが十二の倍数というのはいささか出来すぎじゃあありませんかね?
狂骨の夢を丁度読み終わりました。
吹奏楽のフォルダをかけていたのですが、夢の話の中で、皆で演奏してはいない曲を演奏している白昼夢を思い描いたわけで。
常々「吹奏楽がやりたい」と言っているのは未だにあの頃の夢を引きずって生きているのかな、としばらく白昼夢に酔いしれました。
とても落ち着いた気分で「ああ、今が死に時かもなあ」と思いましたが、私の持論の一つ『死んだ時が寿命』を全うできなくなるので、と格好つけません。
生きる意味は無いけれど、死ぬ意味も無い。
むしろ自分の世界が終わった後で、人の世界を汚すのは本望ではない。

とか久々にすかしてみても良いです。
良い気分じゃー。

そんなわけで春陽屋記念日ではありませんがまた一年よろしゅうお願いしました。
(さらに…)

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赤点先生

3月 18, 2010

私は、証明し得ない学問は全て考えるだけ無駄だと思うわけです。
進化論、精神分析。文学の解釈、歴史。
要するに真理が存在しない、確認できない物ですね。
進化論や歴史は今後の科学の発展次第でどうにかなるのかもしれませんが、その他は全て主観でしか判断することができない。
ま、人は真理を追うべきでは無かったのさ、というお話。私の事です。
真理なんて薄っぺら過ぎて、生きる上で何の役にも立たないどころか害悪にしかならぬ。
この真理に辿りついた以上、他の真理など認められるはずも無いのですが、もしあってもやっぱりくだらないものなんだろうなーと思います。
ハアー、さっぱりさっぱり。

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サ行変格活用術27

3月 6, 2010

ふと、鬱というのは人間を滅ぼすために生まれたような病気なんじゃないかと思った。
京極堂曰く、動物は生きているだけで恍惚としていられた。しかし人間は進化の過程で、それだけでは満足できなくなっていった。
それを救うために、宗教が生まれた。脳内麻薬の代用だという。
アヘンやモルヒネは代用の代用。

ここからは私の解釈。代用の代用は、人間性を著しく低下させるので禁止された。
しかし脳内麻薬の代用とされる宗教は、固体の思考の深化によって否定される場面が多々出てきた。
知識や知性が代用麻薬では抑えきれないほど肥大化した。

動物から人間へ進化する過程で、人間は脳内麻薬では満足できなくなり、宗教という代用麻薬を得た。
そして今、さらに思考が深化する事により、宗教さえも不要と退けた。
つまり、自ら満たされない方向に進んでいるという事になる。
ここまで知識が深化してしまった以上、物理的以外に代用麻薬を用意するのは難しいと思われる。
しかし物理的な代用麻薬は禁じられている。
だから幸せになれない人が出てくる。知性の限界。
やはり人間は生物として歪んだ進化をしてしまったのかもしれない。

幸福論でヘッセが言っている通り、幸福というものを考える時、まず浮かんでくるのは幼少時の記憶。
時間やしがらみに囚われず、真に自由であった時の記憶。
人が人になる時、幸福は失われる。私はヘッセの幸福論に、概ね同意する。
しかし私は今、幸福だ。
時間やしがらみに囚われてはいないからだ。時が経つ恐怖以外に、苛立ちは覚えない。
環境の変化(私は総合して死と呼ぶ)以外に悲しみを感じない。
つまり深化してなお、幸せになる方法はあるという事だ。
私は金もないし、職もなければ成功すらしていない。けれど幸せだ。
もちろん、成功する欲はある。できれば嬉しい。だけど、今の状態は、私は幸せと呼ぶに値する平穏だ。
家族がいて、心から話せる友がいて、何事でも相談できる師がいる。
幸せの最低値が高ければ、もちろん満足できないだろう。
けれど私は満足している。「幸せですか?」と問われれば、幸せだと即答できる。
退化か、進化か、はたまた別の何かか、私にはわからない。
けれど私の例からいえば、人はまだ、幸せになる余地があるはずだ。

ただ、余命数時間と言われても納得できるであろう私は、私がいつも自分で言うように「悟った」というのが正しい気がする。
それ以外の言い方を私は持っていない。
でも考えるのは好きだしやめたくないから、脳だけ残しておいてもらいたいなーとかなんとか。

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2Ⅴ

2月 27, 2010

IMEの空気の読めない変換は癒しを与えてくれます。私です。

時々思う。
たしかに世界は人間のために回っているのではない。けれど、どうしてこんなにも無情なのか。
もちろん無情という感想を持つこと自体が間違っているのはわかる。ならば何故、人間は感情を持ったのか。
この上なく無情な世界で行き続けるために、最上級の邪魔をする、感情を。
何を悲しいと思い、何に楽しさを見出すかはそれぞれ違う。けれど大多数は失う事を嫌う。

今回の作品で、神の如き人物にそれを説かせたのは自分を納得させるためなのかもしれない。
納得できちゃいないが、納得しないといけないんだ。
家族と接するとブルーになっていかん。

不安で潰されそうな時はピアノを弾き込むしかないでござる。
ああ、辛い。
デビューできりゃまた違ってくる……なら嬉しいな。とにかく今は書けるんだから書くしかない。
余計な事を考えてちゃいけない。

……書き上げはいけると思うけど枚数がやば目。多少飛んでもいいから早く話を進めないと。


夢記。
記憶の整理説はあながち間違いではないと思う。
広島(だと認識している場所)の夢。真っ白で大きな船の上に、いろんなお店があった。
いやまーそれだけなんだけど。

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絶版物と著作権

2月 11, 2010

~と○ ってタイトルが前はあんまり好きじゃなかったけど、今は端的に書けるから好きです。私です。

今日は音楽などの著作権に関する話。
私はどんな作品でも、無料で公開するべきだと思う。
って新書みたく書くと引きが強くなりますよね。この書き方は嫌い。まあ進まないから続けますね。
著作権のあるなしに関わらず、というか著作権はこの場合わきにどける。
私は、CDや本は、製造をやめた時点で無償配布を認めるべきだと思う。
何故なら、どんなに価値のないものでも、価値が跳ね上がるから。
3000円のサウンドトラックがあったとする。
製造が中止されれても、もちん買う人はいる。でも絶対数が無くて買えなくなる。そして高くなる。
まあその過程はどうでもいいかも。
とにかく製造していないという事は、作り主が、その商品を作る価値を感じないという事。
どんな理由であれ、ね。
価値を感じているのなら作るべき。
作らないのならそこに「著作」権はない。作っていないのだから。
私の思う中で何に当てはまるかといえば、ゲームのサントラとかゲーム自体だね。
特にゲームソフトはハードさえない可能性があるんだから、ロムの配布を認めるべき。
もちろんDL販売してるものを配布するのは言語道断。

珍しく論理破綻してるけど、それだけ馬鹿らしいと思ってるってコトさ。
要するに、製造してない物は配られても文句言うなってこと。作るのを放棄しているんだから言う権利が無い。
文句言うなら製造してからにしろという事を言いたかったけど、ちゃんと考えもしてないからよく分からないことに。

それとは関係ないけど、SFCぐらいまでのサントラはきまってアレンジが入ってますよね。
あれはやっぱり作曲者がこうしたかったという表れなのかなんなのか。
あの雰囲気が、と思って借りてきたらがっかりという事がザラでござる。
縛りがあるから良い、という場合もあると思うんだよね。

縛りから繋がってRPGツクールDSだけど、容量の縛りがキツすぎて買わないかもしれない。
縛りがあればいいってもんでもないし(そもそもそんな理由じゃないし)、自由だったら良いって問題でもない(RGSS)。
バランスが難しい。

アアそうそうチナミにリンクを貼りました。
長編連載したり短編のっけたりするでござる。

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さーいきーんーおーもうことー

2月 10, 2010

今のまま死んでもいいんじゃない?
いや別にちょっと前までみたく、無性に死にたくなったりするわけじゃなくてですね。
このまま死ぬのも悪くないかなーと。
だって、友達がいて、親もいて、大切な人もいる。
まだ実ってはいないけど、好きな事をして、好きなように生きている。
悩むとすれば創作について上手くいかないだとか、その程度。深刻ではない。
対人関係で悩まされる事もなく、貧困にあえいでもいない。
はっきり言って、かなり幸せ。
やりたい事をやり尽くしたわけではないけれど、ほら、食べ物とかだって、もう少し、って思うぐらいが丁度良いじゃないですか?
だからって別に死ぬつもりはないけれど、今のまま終わるのもそれはそれで幸せな気がする。
学校という線路が終わってからそのまま老後のような、ストレスから開放された場所にいるからこんな事を思うのかもしれないけど。
予兆もなく突然自殺した人の中には、私と同じ事を考えて死んだ人がいそう。
だって今死ねば、私の人生は今後幸せなまま、悲しい事など何一つ起こらずに終わる事ができる。
私が今度言う言葉は全て自分の中の絶対的なものだけだけど、しょうじき、私は今死ねば人生勝ち組だと言える。
毎日静かに目を閉じるのと同じく死ねれば、とても幸せ。
すぐは使わないだろうけど安楽死システムか電脳化はまだかー。


風呂の前に髪を切ろうと思っていたのに忘れてしまったでござる……
あがってから、チョコレートスパークリングを飲みました。
なにこれ、すご、ちょ こ ……
なんていうか、チョコ。おい、チョコ。ウボオオ。チョコだった。

例によって例のごとく四コマ。最近のものばかり掛け合わせていたので、たまにはと思ってレトロゲーをプラス。
パリラんが可愛く描けました。

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いっしょにかーりんぐ

2月 7, 2010

考えれば考えるほど、文体について考える必要はない、書くべき事を書くべきだと思えてくる。
何度頭に主語がつこうが、何度同じ接続語がつこうが、何度文頭が「そ」になろうが、それが必要ならそれで良い。
有名な小説だって、2ページぐらい会話のみが続いてるなんてザラにある。
読むほうはたぶん、まるまる1ページ続いてるレベルじゃないと気付かない。それが面白い小説だと思う。
これは変だ、これは変だと禁則処理を自分で増やしていくから書けなくなる。
そんな気がした。
面白い小説ってのはそんなものに縛られていないと思う。

あと面接がくるたびに、空白期間に関する愚かな質問をされたらどう返そうと思ってだんだんいらいらしてくるあたり、音大に対して相当のプライドがあるらしいという事に思い至った。
履歴書も読めないのか、とか、読んだら分かるとおりを枕詞にしてみようと考えるあたり、すごいプライドだ。
音楽に関するプライドなんて無いと自分では思ってるから、すごい驚き。
新しい自分発見!? みたいな。
自分を客観的に見ようとする行為、それはとても不毛な行為なのかもしれない。というかそうだナ。自分じゃわからん。
私だって自分を客観的に見ているつもりでも、今上に書いたような事はあまり書きたくないと無意識に避けていたし。
~だろう、~だろうと仮説を立てたところで答えの無いものばかりがあふれている世界。
なんてステキなんだろうね。
世界に絶対など、あまりない。

でも思えばソロは絶対に同輩後輩にやらせたくないだとか考えてたり、リーダーは自分以外ありえないと思ってたから、昔から実はプライドが高かったのかもしれない。
大学で演奏系取らなくなったのも「こんなアホらと一緒にやりたくない」だったし。
そうか私は人を見下していたのか……。いやそれは知ってたけど。
思い返せば音大に進んだのも先輩や同輩に「やっぱ一味違うぜ!」って思われたいのもあったし、そして何より実は卒業後の今の状態を予想していたのもある。
音大を出たって免罪符(なるかは知らないけど)があれば就職しないで音楽やってたり小説書いても良いはずだってね。
もちろんその頃は今みたいに「無理だからしない」ではなかったけど。
「できるだろうけどやりたくない」と「無理だからしない」はかなり違う。
こういうかっこ悪い事を素直に書けるようになったのも悟ってきたおかげか。
でも未だに中二臭くも思う辺り、永遠に主観から逃れられることはできないようだ。そりゃ当然か。
なーんてくだらない事を言っていないでピアノの練習をしないと。実は練習中に書いたでござる。

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絶対正義と似非科学

2月 3, 2010

世の中には、絶対的な正義など、ほとんど存在しない。
例えば、人殺しはどうか。
人間の秩序の中では、わりかし悪に分類される事が多い。
だけれど、地域によっては条件付でOKだったり、無条件でOKだったりする。
そして地球単位で見れば、殺しは罪でもなんでもない。
動物が人間を殺しても、人間から見れば悪に分類されるだけ。
動物から見れば正義でも悪でもなく、ただ無価値な現象。
そう考えると、絶対的な正義なんて、探してもなかなか見つからないと思う。

今の社会の風潮は、資源消費や環境汚染が悪だという。
だけどそれは、環境団体が悪だと言うだけで、世界単位で見れば悪かどうかは分からない。
たしかに川に水銀を流し続ければ魚は死ぬし人間も死ぬしで大変な事になる。
オゾン層を破壊すれば地球が冷えるし、紫外線によって皮膚癌も増える。

うーん。科学は無数の試行によって答えが求められるから、環境汚染をすると最終的にどうなるか分かり得ないという方法で解法を導こうとしたけど、アプローチの方法を間違ったらしい。
よく分からなくなってしまったでござる。
この話はまたの機会に。
こう、数学じゃないものを絶対的な論理に当てはめて答えが出ると気持ちいいんだと、最近気付きました。
感情論と違って、使える道具が極端に少ないから難しい。
でもこういう風に世の理を解き明かしていく時期なんじゃないかな、と思う。
やってる人もいるんだろうけど、未だにそういう人は出てきていない。
一度悟ってから、生命や環境に無関心にならないと考える事ができないから難しいよね。
役には立たないけど、自分たちの生活や思考がどんな風に成り立っているか考えなければいけない時が、必ず来る。

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いっしょにはいるひっとらー

1月 30, 2010

ヒトラーが今現在悪く言われているのは、実はヒトラーの策の内なのかもね。
国を愛し、国のために働いた。しかし失敗した。
だから、自分という悪を立て、未来永劫悪く語り継げと言い残した──

だったらカッコイイ。
実際にそれだと辻褄が合うし。一人極悪人を立てて叩き続ければ、国民は悪くないという世界的風潮になる。
まさに今の歴史観。
ドイツ国民はナチスの話題を忌避し(あるいはしているようにみせかけ)、世界的バッシングを押さえ込む。
なんてね。
もしそうだとしても誰も知りえないし、知ってちゃいけない。

私は歴史の公証ができない代わりに、こんな自由な説を立てられる。
もしかすると、物に対する知識を得れば得るほど自由度がなくなるタイプなのかもしれない。
良く言えば創造・天才肌。悪く言えば知識を作品に昇華できない・不器用。さてさて。

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いっしょにとれんどちぇっく

1月 24, 2010

宗教に対する一つの考え。
宗教とは、早い話、価値観を画一化するためのものだ。
人殺しは良くないだとか、自殺は不幸になるだとか。言ってしまえば人生の規範。(そんな物を規範にしたくはないけど)
同じ宗教なら、決められている事に関しては一定の価値観を持っている事になる。
だから、基本的な相手の考えが分かる=怖くない という式が成立すると思い込んでいるんじゃないだろうか。
それは考える事を、人と接することを放棄している事に他ならない。
この考えが正しいとした場合、宗教とは人の心の自由成長を妨げる物にしかならないという事になる。
これは人生の指針を示している大宗教に限るけど。
最初に、一つの考えと書いたけど、私はこれが真理だと思う。大きなものの一部だけにしろ。
色々な知識が散らばり、誰でも読める今の世界には古い、相容れない物。どうだろう?
熱心な宗教家は、恐らく宗教という物が何かも考えた事もないのだろう。あるいは見て見ぬふりをしているか。

どうして「これら」が生まれたのか、考え読み解く事ができるのは、心の自由成長を遂げた人だけ。
それは自分の中の真理であり、人と一部を共有する事はできても、完全に一致する事は絶対にない。
完全に一致したのだとしたら、その相手は自分という事になるからだ。
世界は人の数だけある。同じ世界が二つあるのだとしたら、同一人物という事に他ならない。
つまり、議論し、考えを共有する事は無駄なのだ。
という二段目を明かさなければ私は優秀な教祖になれると思う。宗教なんて、そんなモン。

私の考えが理解、納得できないのは当然。答えは自分で見つけられなければ、真に納得することはできないのだ。
納得した時が、自分の世界の真理が得られた瞬間。
私はこの瞬間がたまらなく好きだ。
たとえ数年数分数妙で考えが覆ってしまったとしても、それはそれで新しい探究ができる。


どうでもいいけど、中でも一番無意味だと思う議論は、言葉尻を捕まえて延々と噛み付いてる事かな。
誰が何を思って何を言おうが自分とは関係がない、というモノでもないけどね。
そこら辺は難しい。というか絶対と相対で話した。
私の出した考えの中で、この絶対と相対の真理はかなり万能なほうなんじゃないだろか。素晴らしい。

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入れ加減、抜き加減

1月 19, 2010

投稿一年目。
一作目 さ
プロナイズドな精神を持って向上しようと励む。
書いている時はネットを切断。音楽並に時間をキチっと取っていた。
期間内は小説を一切読まなかった。
そこそこバランスが取れてたんじゃないだろうか。
BGMはエンドレスループかノイズ。在学中~08四月まで。
一次通過。

二作目 かま
時間や態度は同じ。一般小説にハマって文体が固くなりすぎたと指摘される。
これを書いた後にさらに構成の本を数冊買って勉強。
自由さが消えて方向性を見失う。
何度か出すも一次落ち。08四月から十月まで。
その後に何作か設定を考えるも、どうにも纏まらなくなる。結局年内はプロットを作れず。

三作目 に
設定に凝るが文章と構成がぐちゃぐちゃ。1/5書いて断筆。
書いている時もネットを見たり、期間内でも小説を読むようになった。
時間が減る。08五月ぐらいまで書いているという無駄さ。初挫折。

投稿二年目
四作目 ひま
完全に道を見失って二作目のリメイク。少しマシになる。
書くのが極端に遅くなった。知識が増える。まだ力が入っている。
09七月に投稿が完了した、らしい。どの期間で書いたのかよくわからない。

五作目 ふら
筒井康孝のおかげで文章のほうを持ち直した。
けど構成がまだ纏まらず。そして怖いからか、色々固くなる。
三ヶ月という期間で書こうとして、書かなきゃと追われて失敗。勉強になった。
6Pで書けなくなり、一旦休憩。九月まで。

六作目 さ
一作目のリメイク。
文章が完全に復活したと見せかけてまだまだ固さが残る。
不安になって書いた文章がことごとく的外れなのが少し笑える。
最後のほうにだんだん書けなくなって、時間に追われるようになってさらに焦ってというスパイラルで見事に滑っている。
月末になると焦る性分らしい。09十二月に意欲が尽きる。
本当に書きたいシーンの直前まで書いたから、10四月の電撃を出した後に書いて30日のファミ通文庫に出そうと思う。
次の月に何故かRPGツクールにハマりだす。作るのが楽しい。


途中で書くのを忘れたけど、だんだん創作に対する態度が適当、というか腫れ物を触る、というか、そんな感じになっていった。
同時にプロナイズドな精神も失って、今現在、五作目を書いている。
思った事を書き記した自分に感謝だ。
まだ完全には接し方が分からないけど、徐々にでも覚えていこうと思う。
やはり自分にとって軌跡を纏める事は重要なんだと再認識。
ここまで纏められれば後はどうすれば良いのか見えてくるというモノ。
また今日から頑張ろう。今日から。

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子は親を選べないが、親も子を選べない

1月 12, 2010

検索で引っかかったブログでの出来事。
とあるドメインについてうらみつらみを延々と書いていました。
次にコメントしたら警察に通報します! とかアアー、な感じ。
スパムという言葉を教えてあげました。

でも、そういう知識をつけないでインターネットを利用してるって怖い事なんじゃ……
最近は一家に一台を通り越して一人一台になりつつあるであろうPCですが、知識を持たずに触るのは危険すぎると思うんです。
話した事もない人がどうなろうと知ったこっちゃないってのはあるけど。
現実にしろネットにしろ、危機意識が乏しい人が多いですよね。
ブラウン管の仕組みまで理解しろとは言わないけど、自分に直接関わってくる可能性の高い危機についてぐらいは知っておいたほうが良いと思いますよ。
そもそも、パンピーの利用する大型ブログだったら、トップにでかでかと書くべき。
Yahoo、テメーの事だよ。
無知白痴がゴロゴロしてるから困る。


話は変わって、また相対と絶対のお話。
例えば、20万のvaioミニノートを買って満足している友達がいるとする。
そこで私が横から、そんなんつかえねーってかぼったくりすぎだろとか言うと、相手は嫌な思いをする。
それを言う必要はないんですよね。

何の話かといえば「嫌なら見るな」理論に納得できないという言葉を受けての話です。
確かに一理ある言葉ではあるけど、完全に納得はできない。ようは議論から逃げている言葉ですよね。
嫌いでも、感想を言う権利はある。この場合には当てはまらない。
ただ文句をたれつつ延々と見続ける場合には当てはまる言葉。
要するに、対極にある現象でも一緒くたに考えると筋が通らなくなるという事です。
この世の全ての現象は個別に考えるべき。ようは世界は相対で成り立っている。
この世に絶対はあまりない。

ここで絶対に絶対はないと言い切ればこの理論が根底から抜けている事になってしまいますね。

TwitterでSonyを見直したと言いながらこき下ろす、これぞ春陽屋超理論。
ま、これもPCはダメだけど他は好きという相対的な事象ですね。
これを相対製理論と名付けよう! なんという適当ネーム。

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