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アカギのススメ

 お知り合いから教えていただいたのだが、FC2ブログでアカギのテンプレートが出たそうな(Mさん、ありがとうございます!)。このたびパチスロ化されるため、それとのタイアップらしい。一瞬、これのためにFC2でブログを始めようかと思ってしまったっ……!

 さてアニメ「アカギ」がきっかけで福本にはまってからというもの、友人たちに福本はいいよいいよと勧めてきたわけだが、これまで誰一人として読んだり、見たりするに至ったものはいなかった。自分自身の、作品の魅力を紹介することの下手さが理由ではあるのだが、いささかどころではない悲しさがある。
 しかし、とうとう友人のひとりが「アカギ」のDVDを見てくれたのだ!わひょーい。とりあえず市川戦のあたりまで貸した。食指が伸びれば、順次貸し出す予定。面白いと思ってもらえたら嬉しいなあ。

「ムダヅモ無き改革」大和田秀樹

 買った。あまり発行していないっぽいので早めにゲット。
 これは、さながら鮨のように新鮮さを味わう必要がある、実にバカバカしいギャグ漫画だ。
 第一話が読みきりとして掲載されたときには、時事ネタでもあることだし一発限りとばかり思っていたところ、断続的に続編が出てきてとうとう単行本刊行にまで行き着いた。めでたい。なおかつ、版元は連載作品がどれだけ人気があろうと滅多なことでは単行本を出さない竹書房であることを考えると二重にめでたい。
 そういえば以前「HELLSING」のオマケ漫画で「発のみ、全部ドラ」ってあったな…。

 その「HELLSING」がなんと来月で最終回だそうだ。全10巻、と聞いたときには「どうやって終わらせるんだろう…」と思ったものだが、予告どおり10巻でまとまるようだ。すごいぜヒラコー。
 しかし「TRIGUN」に続いてこれも終わるのか。アワーズもさみしくなるなあ。

ざわざわ100人ソート+「零」感想

 先日作ったソートがさすがに人数多すぎるので、100人にしぼった。あと、今週のマガジンにて判明した末崎の名前もさっそくつけくわえておいた。
 http://usamimi.info/~bef/sort100.html

 今週の「零」感想でも。
 やたら可愛らしい名前が判明した末崎さん。そりゃあグレてヤクザにもなりたくなるだろうて。
 それにしても福本漫画が名前でキャラ立てするようになったとはなー。皆さんご存知のように、福本漫画の登場人物はおおむねみんな似たような名前の持ち主で、特徴的な名前をつけてもらえるのは主人公くらいだ。「美心」も坂崎の溺愛っぷりと脱力するカイジとのギャップをギャグにするためにつけられた名前のような気がするし。
 でも今回の末崎のように、「零」がわりと既存のパターンから抜け出した名づけをしているのは、書くにあたって「いまの少年漫画らしく!」を心がけているのかなと思ったり。
 そしてこれまで単独プレーだった零が、とうとう共同でゲームをクリアしなければならない危地に立たされた。私としては、チームプレーが必要なここをどう描くのかものすごく注目している。
 ところで「賭博覇王伝」なのに、最近は全然ギャンブルしてないように思うのは気のせいだろうか。

連載は単行本化を意味しない

 雑誌に連載されているからといって、必ずしもその漫画が単行本化されるとは限らない。なぜか。「TRIGUN」や「おお振り」のように、作者自身のクオリティに対する要求の高さが発行を遅らせる場合もあるだろう。「HELLSING」は毎回掲載されていない、ということもあるが、載ってもページ数が少ないのでやはり単行本化が遅れる。
 こうした人気作品の場合は読者は幸福である。なぜなら、たとえ不定期だろうと遅れていようと刊行の見通しはあるからだ。作者が原稿を落とさず毎号きちんと連載していても単行本にならない、そんな漫画はこの世にあまたあるに違いない。

 そんな中、いくつかの私の好きな漫画が単行本化の予定、あるいは可能性が見えてきた。
 まず無茶苦茶さと時事ネタで好評を博した「ムダヅモ無き改革」は来月発売予定だとか。めでたいことこのうえない。これを読めばあなたも国士無双がライジング・サンとしか読めなくなることうけあいである。
 WFのレポ漫画として電撃大王でぽちぽち載る「ドールマスターぱられる」も一冊にまとめられる可能性があるそうな。レポ漫画、という形式でも新キャラが出てきたり話が進んでいたりと、読者にとって気になる存在だっただけに単行本化されたら嬉しい。もし刊行されなくても、同人誌として出すか検討したい、と作者ご自身が言っておられるので気長に待つべきところだろう。
 そして朗報、なかむらたかしの「キングアビス」もどうやら単行本が出る「らしい」。らしい、というのは同誌で連載中の漫画家が編集者から聞いた話として自分の日記に書いた……という、きわめて不確実な情報だからだ。だとしてもそういう話があると思うと、未来に希望が見えてくるね。出ますように。ナムナム。

加藤和恵

 拍手いただきました。ありがたき幸せ。

 ジャンプSQで加藤和恵の読みきりが掲載されたと聞き、さっそく読む。ストーリーはわりと手垢のついたもので穴もある(仮にも恩人を十年も放置しておいてよかったのかよ?とか)。しかしこの大味で王道の作風こそ加藤和恵なのだ。なにより絵がいい、とてもいい。この人の描く動物は本当にいきいきとして魅力的だ。いや、今回は動物というか悪魔なんだが。
 てなわけで「ロボとうさ吉」を読み返した。うさ吉は36歳バツイチで足技使いで兎人種最強の前部族長で因縁持ち、という怖ろしいまでのハイスペックぶり(何の?)と見た目ちんまいぬいぐるみという新機軸が融合した良いキャラであった。叶うならば続きが読みたい漫画である。
 …今気がついたんだが、「トッキュー!」を読んだとき嶋本に既視感をおぼえたのはどうもうさ吉のことではないのか。ということは首(オブト)が真田でロビンが神林だな、などと埒もない想像に脳を委ねてみる。

野球部員が11人いる!

 今年もまた甲子園がはじまった。昨日の新聞で甲子園に関連して、女子部員についての記事が掲載されていたので興味深く読む。
 http://www.yomiuri.co.jp/sports/hsb08/news/20080731-OYT1T00589.htm
 しかしまあ、こんな真面目に野球の話題をチェックするようになるとはね。数年前の自分が知ったら驚くにちがいない。

 よく知られているように、「おおきく振りかぶって」は雑誌連載分と単行本の間がかなりあいている。現在、単行本化されていない連載が5冊相当あるというから、単行本派は胸かきむしって苦しまざるを得ない状況だ。昨年、国会図書館でアフターヌーンを閲覧・複写している人を見かけたが、その気持ちは分からないでもない。
 そのうえ私は、基本的に可能な限りネタバレから遠ざかりたいので、おちおちファンサイトもうろつけないのである。弱った。ネタバレ注意の表記を見かけたら全速力で退避するとか、日記を見ないようにする、とか対策はあるけれども。
 しかし詳細は分からなくても「(キャラ名が)が…!はわわ」みたいなことが1行でも書いてあれば、なんとなーく雰囲気が察せられてしまうわけで。ますます出歩きにくくなるのであった。弱った弱った。
 さてそういう感じで知ったのだが、最近の連載分で篠岡になんぞ起こったようだ。ふむ、つまり1巻でネタ振りされていた、篠岡がマネージャーをしている理由が明かされるのかな。1巻のおまけページ(p.66)によると、篠岡は「野球が大好き。中学時代はソフトボール部。マネジになる決心をした理由についてはまたいずれ…」と意味ありげな説明がされている。しかもソフトボールの腕前はかなり良かったらしい。
 おそらく篠岡は、百枝とは違ったアプローチで「野球部の女子マネージャー」を描くために置かれたキャラだろうから、百枝の過去と併せてどう描かれるか楽しみだ。
 誤解されるような書き方でもうしわけないが、おお振りを知った当初、私は篠岡がなぜ必要なキャラクターなのか分からなかった。「監督・顧問・選手」はともかく女子マネージャーが部の運営に必要だとは思えないし、本筋にもまったく絡まないからだ。今作が野球漫画というより、野球「部」漫画であることを考えれば、父母会や応援団同様、女子マネージャーがいても別に不自然ではない。にしても、篠岡が出てくるのは単行本のおまけページのみだという事実は、私の中にいる邪推の虫がむくむくと起きあがってくるには充分である。
 西浦高校野球部の選手が10人でなければならない理由は分かる。野球をするためには9人の選手が必要だし、また9人だけでは、大会を勝ちあがっていくことは不可能だからだ。では部員が11人いる理由は、はていったい何なのだろう。

おおきく振りかぶって10巻

 RDの録画を失敗した。わははは。チクショー!

 10巻のキーワード。「対比」
 部員はたったの10人、しかも1年生ばかり、と数字のうえでは弱小チームのように見えるわれらが西浦高校硬式野球部だが、実際はそうでもない。
 投手、三橋廉。独学で身につけた4つの球種と、どんなときでも失わない制球力はピカイチ。
 捕手、阿部隆也。脅威の記憶力と分析力を併せ持った頭脳派捕手。上位打順に座れる打力もある。
 三塁手、田島悠一郎。四番はまかせろ。持ち前のセンスでどこに置いても様になる、まさにスーパースター。<贔屓目
 突出して目立つのはこの三人だが、「普通に」よくできる花井、バントに関しては百枝も絶対の信頼を置く栄口、ミスのない巣山、と能力面だけを見れば充分すごいチームだ。と、思う(なにしろ素人なので自信がない)。田島かっこいい。
 一方で、チームの総合力はかなり弱い。なにせ、誰か一人でも抜けたらとたんに公式戦をしのぎきれる力がなくなるのだ。作中でさんざん繰り返されているように、まともな投手は三橋しかいないし、攻撃の柱である田島が欠ければ点を取れない。だからこそ百枝は花井を育てようとしているのだし。そして阿部だ。三橋のすさまじいまでの制球力は、阿部の執拗な配球と組み合わさって絶好の力を生み出している。ロカの台詞にもあるが、阿部が崩されると西浦にとっては大きな痛手となるだろう。
 ここで思い出さなくてはならないのが、1巻で阿部と三橋が交わした「約束」である。阿部は「三年間絶対に怪我も病気もしない」と言った。物語で絶対という言葉が出てくるとは、いつか「絶対に」それが試されるときが出てくるということだ。そのとき、阿部の言葉にすがり、阿部が受けるのでなければ自分はダメだ、と思っている三橋ははたしてどうなるだろう。
 つまり西浦は能力の高い選手を擁してはいるものの、全体的に見ればもろいチームなのだと言える。

 そんな西浦と3回戦で対戦した崎玉高校は、まったくもって普通のチームだ。頭使って野球をしてなくて、主将は優しい先輩で、場外ホームランを叩き出せる佐倉大地という選手のいるチーム(かつて百枝は言った。不思議とどんなチームにもいい子が一人か二人は入る)。
 けれども、崎玉はただ弱いだけのチームではなかったろう。佐倉の絡まない得点が半分あった、つまり点を取る力と勢いは充分あったのだし、守備でも西浦をたびたびおさえている。だが崎玉は「桐青と百回やったら百回ボロ負けするチーム(市原)」で、西浦は「あと十回やったら十回ボロ負けするかもしれないけど、今は勝ってる(栄口)」チームだった。それが事実かどうかは大きな問題ではない。選手本人の意識がそうだった、というのが両者の最大の差だったように思われる。
 さてこの崎玉戦は物語にとってどんな意味があるのだろうか。もちろんひとつは、いまだ田島の下でくすぶる花井が吹っ切れる過程を描くことだ。できるかどうかはともかく、花井が田島を追おうという意思を持たねばチームの攻撃力が育たないのだ。ああもう田島かっこいい。
 試合中、うじうじと悩んでいた花井の背を押したのは三橋である。三橋本人はわかっていないだろうが。三橋の、自分の居場所を死守しようという思いから出た言葉が、花井の心を決めさせた。悩んでもいい。追いかけて、追い抜こうとする意思が重要なのだ。意思がなければ始まりさえしない。
 それにしても、必要以上にびくつく三橋と、やたらと気を遣ってかれに言葉をかける花井の姿は、チーム内での三橋の立ち位置をあらためて浮き彫りにするものであった。
 1巻、三橋は西浦で「ホントのエース」になる、と決めた。私は「ホントのエース」とは球速や制球力のような実力を差すのではなく、チームの軸となれる存在のことではないかと考えているのだが、周囲が「お前こそエース」と一も二もなく頷いていたとしても三橋本人にまったく自信がない今の状態からすると、まだまだ遠いということなんだろう。でも「投げられればそれでいい」と言っていた三橋が、「オレが打たれてチームが負けるのが嫌だ」に変化したのだから、桐青戦の勝利はつくづく大きなものだったのだとわかる。当初あの勝利は意外だったが、ちゃんと意味があったのだな。

 ところで、三橋は作中で甲子園に行くことがあるのだろうか。私としてはぜひともまさに甲子園の決勝戦、大観衆が注視しテレビカメラが向けられたマウンドに立つ三橋を見たいと思っているのだが。いや甲子園でなくてもいい。三橋には晴れの大舞台にこそ立ってほしい。
 たとえば田島のようなスーパースターなら、どんなところでも否応なしに人目を惹きつけるだろう。榛名ならば、プロという夢のために最大限の努力をはらって、その結果がたとえ悔いあるものだったとしても笑っていられるだろう。かれらなら、自分の力で立つ場所を大舞台にできる。
 だが三橋には、誰もが大舞台間違いないと認めるような場所にこそ立ってほしいのだ。ほかでもない、あの三橋だからこそ意味がある。
 三橋が、西浦が負けるときはいつ来るのか、どう負けるのかと楽しみにしている人間には、こんなことを言う資格もないかもしれないが。

福本作品考・「仲間」編

 アニメ「アカギ」を皮切りに福本作品に触れてから3年ちかくたつ。だというのに、私にとって福本作品を語ることはますます難しさを増すばかりだ。なにをどう書いても、本質をとらえていない気がしてならない。
 関東より遅れつつアニメ「逆境無頼カイジ」が当地でも放映を終了して約2ヶ月、福本を語る余裕が出てきたので、少々考えていることのメモ書き程度と己に言い訳して記してみよう。以下、シリーズのネタバレを含む内容となる。

 現在のところ、私が福本作品を解くキーワードにしているのが「仲間」だ。「賭博黙示録カイジ(以下「黙示録」)」での仲間というものの描写に違和感を持ったのがはじまりだが、現在マガジンで連載中の「賭博覇王伝零(以下「零」)」でも同じような違和感、つまり福本作品において「仲間」とはどのような意味合いを持っているのか?という疑問がわいてきた。
 「黙示録」とは、主人公・カイジが借金返済のために客船エスポワール号に乗りこむところから物語が始まる。船内では一夜にして大金を手に入れるか、文字通りの生き地獄に堕ちるか、二者択一のギャンブルが開かれていた。ここから「破戒録」「堕天録」へと続くカイジの物語がスタートするわけだが、注目すべきはカイジが体験するほぼすべてのギャンブルは「仲間」の存在を前提としていることだ。もちろんひとつひとつのギャンブルにおいて主たるプレーヤーはカイジであって、そこにチーム戦の形式は見られない。カイジと対戦者が一対一で争う、というのがフォーマットとなっている。
 しかしカイジがプレーヤーとして場に立つためには必ず誰かの協力が必要である、という状況が常に作り出されている。限定ジャンケンでは安藤と古畑によってはじめてゲームに参加することができたわけだし(おそらくそのためにカイジは船井に騙される必要があった)、Eカード、地下チンチロや沼は言わずもがなだ。では17歩はどうか。「堕天録」では「破戒録」でカイジ側だった三好と前田が裏切るという展開を見せる。しかしあれも仲間がいる、という建前があって成立したゲームであり、途中からは坊ちゃんの協力なしには続けられなかった。鉄骨渡りも佐原の落下があったからこそカイジは渡りきることができたという点に、他者の協力を見ることができる。
 唯一カイジが誰の協力もなしに、つまり「仲間」なしに挑んだのがティッシュくじである。このときEカードのときからいたギャラリーは最初から最後まで、ただ状況を説明するためだけに存在しているように見える。真の意味で一対一で挑んだ結果が完膚なきまでの敗北というのは興味深い。
 一方で、カイジには少年漫画的命題の「仲間」は誰一人いないのも事実だ。かれらは常にその場限りの協力者であるか、物語の舞台から脱落するかして、気楽に辞書的な意味を謳歌する存在ではありえない。むしろ「零」を読むと、福本作品における「仲間」とは安藤と古畑のように、「主人公が常に危険に迫られている」状況を設定するためのものだと思えてくる。
 さらに「仲間」という言葉に違和感をおぼえさせられるのがEカード編だ。あらゆる意味で格上の対戦者、利根川との勝負の最中、カイジはギャラリーを見て自分はひとりではない、仲間がいると感じている。はたして本当にそうだろうか?もちろんその後、かれら有象無象のギャラリーが展開上大きな役割を果たすことは本編を読めば分かることだが、この時点ではただ苦戦するカイジを(肩入れしているとはいえ)「見て」いるだけの存在である。そうした一種無責任な人間を「仲間」と呼んだカイジの考えは、いや、そう呼ばせた福本伸行の仲間という言葉に対する観念はいかなるものなのか。
 すなわち、その後で「装置を隠し持つ」役をおおせつかされる、つまり状況を動かす役を与えられるからこそ、福本伸行はギャラリーを仲間と呼ばせたと考えられるのだ。チンチロ編や沼編でのギャラリーはそのような呼ばれ方をされず、状況に関わらない無責任な人々のままでいることはその反証といえる。福本作品における「仲間」とは、状況を動かすコマのようなものであって、登場人物たちが協力して事に当たる関係性、信頼のようなものではないのだ(この点、代表作の中で辞書的な意味での「仲間」にあたるのは「銀と金」での平井一党のみではないかと私は考えている)。
 では現在連載中の「零」をみてみよう。「零」はめずらしく主人公が「仲間」とともに登場した作品だった。もっとも、かれらは仲間というよりゼロの配下といった印象は否めなかったが。当初仲間の存在は、描かれるゼロの未熟さとともに、少年漫画のフォーマットを意識的に使用するのかと思わされた。だがすぐにその予想は裏切られる。ゼロは仲間の協力で事に当たることは一切ない。なにより本人が「三人単位でのゲームならオレがみんなを守れる」と発言していることからも、かれらはあくまで保護の対象、悪意的に言いかえればゼロの足を引っ張りかねない存在として設定されている。魔女の館編においても、ゼロ以外の20人はかれの決定に無条件に従うことがわざわざ明言されるし、なおかつ恐怖にかられて危機に陥らせさえするのだ。ある意味ではカイジ以上に独立独歩の主人公であるといえよう。

 福本を考えるうえでのもう一つのキーワード「同類」についてはいつか書けたらいいな。

まが(略)

 柳岡帰っちゃった。

 エネルギーすっからかんなのに、とりあえず柳岡についてはなにかコメントを残さねばなるまい、というこの気力はいったいどこからくるのやら。

 あと今週は「トッキュー!」もよかったヨ。

まがじそ

 「トッキュー!」に五十嵐機長が登場した。喜ばしい。

 千堂は一歩の家に泊めてもらったが、柳岡はどうするんだ。おそらく時刻的に泊まりになるのを覚悟して宿は事前に確保しておいただろう。それにしても千堂がいないときの柳岡、というおそろしく貴重な姿を拝めるとは。ふふふ。
 今週でひとまず怒涛の柳岡ラッシュは落ち着いた風だが、千堂が宮田のスパーリングパートナーになったら、次なる登場も期待できるな。ふふふのふ。
 …とまあ、先日からアホに磨きがかかった日記だ。これからも尚一層励んでいく所存である。

 さて、宮田父と柳岡は現役時代対戦したことがあるのではないか、といういち(柳岡)ファンの手前勝手な妄想が実現し、私は目が飛び出るかと思うほど衝撃を受けた。実を言うと、もとは私ではなく友人が思いついたのだが、いかにもありそうだと私の脳内設定に採用させてもらったのである。
 森川ジョージは読者が喜ぶことを心がける漫画家だ。サービス心がある、とも言い換えられるだろう。かなり記憶があやふやだが、インタビューで「意外な展開で読者を驚かせたりするより、喜ぶ話にしたい」というようなことを語っていた。そのことは、一歩のかつての対戦相手たちが今でもときたま姿を見せたり、ブライアン・ホークのトレーナーについていたミゲル・ゼールが戦後編では進駐軍の兵士として登場していたりするなど、読者を「ここにこういう繋がりがあるのか」とにやりとさせる形で表われている。一歩と間柴、宮田と千堂のように、対戦が難しいボクサーを同士をスパーさせるのも読者サービスの一環と思われる。
 だから、宮田の世界戦と絡めていずれ描かれるだろう宮田父の若かりし日々に大阪弁のボクサーが登場したとしても、画面的にはおかしくないと思えたのだ。むしろ台詞がなかろーが外見がモヒカンだろーがスキンヘッドだろーが、試合のシーンがあれば対戦相手を柳岡として認定するぞという心意気でいたのである。アホか、と思っていただいて構わない。自分でもアホにしか見えないから。
 いざ蓋を開けてみれば、回想シーンどころか憧れの(強調)相手と会えたことで浮かれた柳岡が二人で飲みに繰り出して酔っ払う、という私の脳裏にマガジンお家芸の「!?」が乱舞する話になっていたが。いったいどこに向けてサービスしているんだ森川ジョージ。

 しかしながら、「はじめの一歩」が最も面白かったころ、つまり40巻ごろの森川ジョージならこうしたシーンは描かなかったにちがいない。そう思うといささか複雑な感がある。
 一歩が日本王者となった以上、展開の方向性が防衛、つまり安定を指向するのは当然のことだが、安定と停滞は表裏一体だ。またそれ以上に、連載の長期化に伴い、ひとつひとつの試合やエピソードが間延びする一方なのも辛い。描かなくてもいいことを画面上に表しすぎるからだ。…なんか近麻に同じような道を辿っている漫画家がいるな。
 けして今の「一歩」がつまらないわけではない。だが以前と比較すると、どうしても質が劣ると映ってしまうのである。
 願わくは、将来完結した際に頭から読み返して尚、すべてのエピソードが愛おしいものとならんことを。

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