12月1日付で「ざわざわサーチ」さんが閉鎖されたのでリンクを削除。2年間、本当にありがとうございました。ざわ・・ざわ・・なネットライフを送ることができたのは「ざわざわ」サーチさんのおかげです。
12月1日付で「ざわざわサーチ」さんが閉鎖されたのでリンクを削除。2年間、本当にありがとうございました。ざわ・・ざわ・・なネットライフを送ることができたのは「ざわざわ」サーチさんのおかげです。
久島の考え、直観がはじめて言葉として語られる。かれがなぜ、気象分子散布に反対したのか。そして地球律とは何か。
まずひとつ。この話は22話までの謎が明らかになり、次回以降の展開を盛り上げるための布石を打つ、重要な回であるはずだ。
だがいかんせん遅すぎた。これまでまったく語られてこなかった地球律の謎は、言葉でさらりと触れられただけで「ふーん」以上の感慨を呼び起こすものにはならない。視聴者に「おおっ!なるほど!」と思わせるためには、少なくともこれ以前の段階で地球律に触れたエピソードを1話か2話使うべきだ。
また、ジェニー・円は気象分子推進者であるため久島や波留たちと対立することになるのだが、これも描写が唐突すぎた。主人公組みが仮説ですらない、いやトンデモ科学状態の地球律を信じて動くのはわかる(あのひとら直観のひとやから(笑))。しかし円のかたくなさに説得力が感じ取れない。これではただの悪人だ。円は4話以降クライマックスにいたるまで登場してこなかったため、対立してても人の話を聞かないおっさんにしか見えないのだ。もしこの前段階で、円が気象分子をまるでわが子のように大切している、情熱をかけた研究だとわかる話があれば違ったのかもしれない。しかしそんなエピソードが作られることはなかった。描写をするのは遅すぎたのだ。
それから、これは作劇上のミスではないが、ソウタが部長代理に就任しているのは明らかにおかしい。いやこれがたとえば「グレンラガン」とかならいいよ?けれどもこの「RD」では、ただの助手が責任ある立場につくことがありえる世界観ではないだろう。しかもソウタが部長代理になる必然性がないのでよけいに不自然に感じる。
これ単体で見ればかなり盛り上がる話ではある。しかし23話で盛り上げる伏線を張るのに失敗してるため、24話は気象分子散布が成功してしまうというイベント消化以上のものにならなかった。つくづく残念だ。
気象分子が散布されてから一週間。砂漠化した地域で300日ぶりに雨が降るなど、気象分子は順調に効果を上げているようだ。円が望んだように。かつて人の手で破壊された地球を人の手で戻さなければならない。それが円の望みだったのだ。
一方電理研では、久島が残した最後のカード、超深度ダイブを実行するための準備を進めていた。
……だからなんでなんだよ!気象分子が地球律を引き起こし、海が燃えつきるような事態を起こす可能性がある、というのはあくまで仮説ですらない、久島の直観だったわけだろう?世間的にも気象分子バンザイな雰囲気な中、人工島を支える電理研がそんなことをやっていていいのか?
というわけで今回は大人っぽくなって色気が出てきたミナモさんと波留さんとの、哀しみあふれる昼食シーンが見どころでした。
実は19話を見たとき「波留さん最後には海の不思議パゥワァで若返るんじゃ……」という考えがちらりと脳裏をよぎった。けれどもアニメ誌のインタビューで「逆浦島太郎をやる。肉体は老いてしまって、話が進むにつれて精神が若返っていく」とあったから、最終的には精神年齢30歳、肉体年齢80歳のスーパーおじいちゃんで完成されるのだろう立てるようになるのはともかく若返るなんていくらなんでもクチャクチャだろハハハハ。と思い直したのだ。
まさか本当に若返るとはねー……。トンデモ科学ここに極まれり。
いや、べつにトンデモ科学なのはいいんだよ?海にすべての記憶が眠っていようが、体内の水を通じてすべての生命は共感しあえようが、それを魅力的な物語にしたてあげることができるならば、トンデモ上等だ。いくらでもやってくれなさい。
しかし「RD」は致命的なまでに説得力に欠けている。「分かりにくいかもしれないけど、これはこういう理屈があってこうしているんです」という説明をおざなりにして「見たままを感じ取ってください」というのは、物語の作り手として怠惰に過ぎる。感じてほしいというのなら、まず言葉を尽くすところからはじめるべきだ。
ハレー彗星の影響で地球全体が活性化し、水によって命がひとつになった夜。なるほどそれはとても美しいものだったのかもしれない。けれども、ほんとうにそれは伝わったといえるのか?空を見上げているのは非常に狭い世界で展開していたこの作品に登場していた人物だけ、いわば身内だ。
このアニメ、全体的に起承転結のうち、「起」の部分がどこまでも欠けてたんだなあ……。地球律とはなにか、というテーマと世界観の根本にかかわる設定にはじまり、キャラクターの動機も説明はされるけど説得力がない、各話でも話がなんでそうなるのか不明な事が多い、と物語の最初の要素たる「起」がどうしようもなく欠けていた。
そりゃ、傑作にはならないとは思っていたけど、まさかこれだけひどい出来で終わってしまうとは。もうちょっとなんとかならんかったのだろーか。
目覚まし時計をセットしてもアラームが鳴る前に目が覚める、というのはかなり役に立つと思うんだが……。
オーフェンの推測は、「教主が死んでいれば外界で人間種族が生存している」ということでいいのかな。
ひょっとしたら魔術は天人由来のものでなかった可能性が出てきた。教主は始祖魔術士ではなかった=人間種族の魔術は常世界法則のくさびを必要としない?だとすると天人種族がそれをなぜ隠そうとしていたのか、が問題だわな。イスターシバは彼女の子どもたち、人間種族の魔術士に希望を見出したが、聖域は逆に危険視していたこととかかわってくるんだろうか。
てか、チャイルドマンもだまされていたって何事ー?!いや、かれが教主に「お前は始祖魔術士だ」と告げ、しかしそれが後日談で否定されてしまったわけだけど。二百年の時間転移という決断とチャイルドマンの名はどうなるんだああああああ。
「背約者」で明らかになったことがほとんど覆っていくのは、壮観ではあるけれども複雑である。第一部のカタルシスを否定されるとは思わなかった。
あ、もしかしたら第二部開始当初の構想としては、「扉」でそれをやるつもりだったのかもしれないな。それが、いざ始めてみると第二部のテーマである「絶望と、そこからの解放」とストーリー進行的に噛みあわなくて削った、とか。
だあああっ!もかもかするぅぅぅ!
ときに本日もサルア熱は絶好調。くたばれ、と仕草だけで言うところが最高だ。一応あんなんでもキムラック教徒、生まれたときから肌身に染みついてきた信仰に抵触する危うい話をどういう心境で聞いているのかと思うと……いかん変な笑みがフヘヘ。でも最後まで聞くよな。自分の方から話振ったんだしな。自分は避けられない、と妙な責任感あるしな。むしろ設定開示を固唾をのんで見守っているわれわれ読者のためにもちゃんと聞いてくれ。たとえ胃を痛めたり胸が悪くなろうとも。ってゆーかそうなってくれたらかえって嬉しいです。
ところでサルアはすべて聞き終わったらどうするのか非常に興味がある。教義が根本から引っくりかえされかねない「事実」を自分ひとりの胸におさめて墓まで持っていくのだろうか。あー、なんか新大陸で教主を失い信仰が揺らいで不安な教徒たちを支えている、とかそういう未来予想図が浮かんだ。でもいくら説教好きとはいえ、あんまり堅苦しい生き方はしてほしくない。面倒なことがすべて片付いたら、元の「やりたいことをやる」スタンスに戻ってほしい。ただ、その「やりたいこと」に若干の「せねばならない」が混じっていてくれることを希望する次第。
しかしまあなんと勝手な注文だろうね。>自分
我が家の洗濯機は脱水中によく止まる。ひどいときには5回くらい。シーツなど重いものを洗った場合は特にそうなることが多いので、「年寄りには重いわい」と息切れしているようにも聞こえる。まあ家に来てから20年くらい経っているからね。
いまのところ止まるのは脱水しているときだけだけど、洗濯もできなくなる前に新しいのを買わないとねー。
もうひとつ買い替えを検討しなくてはいかんのがテレビだ。なにせ2年半ほどしたら映らなくなるんだもん。こちらは洗濯機と違ってまだまだ元気だから、地上波デジタル用のチューナーを取りつけるか、ケーブルテレビに加入するという手もある。
てか、思いきってテレビのない生活に入るというのもありだよな。テレビなんぞそんなに見ないし、ニュースはラジオと新聞があれば事足りる。あ、でもそのラジオも挙動が怪しくなってきてるんだった。
とはいえ、オタであるこの身には完全にテレビから脱却するのは難しいかもなあ。いま考えているのは、ケーブルテレビに加入してアニマックスとBSを見られるようにするということ。これがいちばん幸せになれそうな気がする。
あと個人的に欲しいものが最近できた。「ポメラ」というミニチュアサイズのワープロである。機能をぎりぎりまで削ったシンプルさが魅力。ただしおもちゃとして買うにはちょっと高いかな。
やぁぁぁぁっとオーフェンの話が核心に触れはじめた。魔王スウェーデンボリーの話から人間種族の話になったということは……えーとえーと、いったいどうなるんだ。
「聖域」によればボリーさんはかつて人間であり、理に混じって仙人となった存在らしいが、この世界の存在ではない可能性すらあるそうな。
現在生きている人間種族は、始祖魔術士によれば、かつておそるべき力を持ち千年前に神々と共に現出した巨人種族らしい。ここでいう巨人種族なるものは、最終拝謁でオーリオウルが語ったユミールと同じものなのだろうか?もしそうだとするなら、キムラック教会の聖言の一節にある「原初(ユミール)の血の聖なるかな」にもちょうど符合するけれども。
そして三百年前、キエサルヒマに人間種族が漂着する。天人種族はかれらをあたたかく迎え入れ、イスターシバは人間種族の魔術士、彼女の子どもたちに希望を託した。ボリーさん版「世界書」やカミスンダ劇場の戯曲「魔王」は彼女が子どもたち、人間種族の魔術士のために残したものだ。「魔王」がなにを伝えようとしていたのかは、結局本編でも不明のままだったからここで繋がるのだろうか。ううう。
そして第二世界図塔でドラゴン種族の遺産は完結したってどーゆーことなのさ!マスマテュリアの氷解や教主の機能停止にもかかわってくるの?どうなの?これがドラゴン種族の消失を意味するのなら、クリーオウが連れている子犬のようなものはいったい何者なんだ。
なんつーか、予想通り小出しにされる情報にじりじりが募る毎日になりそうだ。だれか、だれかわたしに擬似時間転移の魔術をかけてくれ!
拍手いただきましたー。なんかここ最近ぽつぽついただけてて嬉しい限りどす。
11月に入ってから、まるで今年更新さぼっていたのを取り戻そうとするかのよーに小ネタを量産している。人はこれを帳尻合わせと呼ぶ。低クォリティなのはともかくとしてだ。
さてそんなこんなで挑戦中の「選択課題・ベタ」、早くも絶賛ネタ切れ中なりよ。リストとにらめっこをしては唸り声をあげる毎日である。結果、こじつけどころかそれ通り越していろいろな意味でアレな話を書いてしまったのでかなり後悔している。反省猛省焼き土下座。せめてもう少しまともなものになるよう、後日書き直そう……。
お題に合わせた、本当にベッタベタな話を書こうと思えばたぶんやれる。でも、それをやったとしても面白くないんだよなー。
ついつい変というか一般受けしなさそうな話にしたくなってしまう性質なのだが、それならそれで変なりに「伝わる」ようなものを書く責任があるわけで。これまで書いたものが、わずかなりとも伝えられているかというと疑問だ。だからといって「自分だけがわかっとりゃいいんじゃい」とは開き直れていない。
振り返るに、わたしの「表現したい」という欲求はずっと「読んでー読んでー」欲と抱き合わせでここまできたんだよな。結局幼稚園のころからたいして変化していないのだよ(爆)!
などとつらつら考えていたのだが、つまりわたしの目標というのは「変で、面白いと思ってもらえるもの」なんじゃないのか。いやあくまで自分主観だから、読み手さんからどういう印象を持たれているのかはわからないけれど。
と、まあベタと変を両立するよーなネタがなくてうなっている。このままでは「『やきもちを焼く』でおもちを焼くコズミ博士」とか「『昔の恋人登場』で三橋と阿部が練習してたらなぜか畠と榛名がやってくる」とかますます意味わからん領域に到達しそうですよ。
ここ最近の行動が定型化している。まず日付が変わる前には必ずPCの前に陣取っている。おもむろにCGIの管理者ページにログインし、新規投稿スタンバイ。そして00時03分ごろになったら即モツ鍋へ直行して更新を確認し、感想をひとことなりとも書く、てなことを毎日続けている。こんなに規則正しい生活、送ったことがないぞ。
同じ行動をとっている人間は全国にわんさかいるんだろうなと思いながら今日もモツ鍋をレッツクリックするのでおじゃる。
二日続いた今までのおさらいが終わり、やっと魔王による真の歴史が語られはじめた。はじまった。はじまりはしたが実質なにもはじまっていないに等しい。
つーか、どっちかというと「虚像」における領主の推測を裏づける内容だった。……ん?これもやっぱりおさらいかもしれない。
議論しても詮無い云々の一文で、聞き手として配置されたのがサルアなのは、やはりキエサルヒマについてある程度のことを知っていて、なおかつ柔軟つーか客観的に振る舞える人間だからだろうなあと思った。うひょー。
今から2年ほど前、2007年正月の話。明日からはじまる労働の日々を前に、わたしは「よぉし、いっちょ映画でも見てやる気をもらうべ!」と映画館へいそいそと出かけた。
しかし映画館へ着くと残念ながら満席。次週には上映が終わってしまうため、その日その時間が見られる最後のチャンスだったというのに。さめざめとしながら帰路についた。
その見逃した映画がこの「敬愛なるベートーヴェン」である。風呂にも入らずケツを丸出しにしたりする、きちゃないオッチャンの前にかわいこちゃんが現われるという物語だ。
見終わったはじめは、ベートーヴェンを写譜師のアンナが「癒す」話なのかと思っていた。しかし、時間をおいてよくよく考えてみるとそうじゃないんだよな。ベートーヴェンは難聴からくる指揮に対する不安をアンナに助けてもらったりするが、かれは最後まで孤独だ。
おそらく最高の(唯一の、ではない。隣に住むおばあさんを見よ)理解者たりえたアンナを、ベートーヴェンは「大フーガ」の作曲と写譜によって解放しようとする。かれの芸術、音楽という名の神の言葉は素晴らしく、聞くものを感動させる。だがベートーヴェンと同じ側に立つことは常人には許されない。もしそうしていれば、アンナはカール同様潰れてしまっていたことだろう。だから「大フーガ」は未来の音楽へかけられた橋であり、その橋は解放されたアンナがわたっていくためのものなのだ。
中盤の「第九」初演シーンはいかな音楽素人のわたしとて圧倒される素晴らしさ。家のしょぼいテレビなどではなく、劇場で観たかったと思うシーンだった。
んが、一番印象に残ったのは字幕、というか翻訳が荒かったことと。かの有名ななっちほどではないが(笑)、テーマの繊細さについていけてなかった感が。もちろん、これは英語などさっぱりな人間が言うてることであるから無茶な注文であろう。
もかもかもやもやさせられながら24時間待った日の感想だよ。
昨日の時点で予想はしていたものの、やっぱり今日もこれまでのおさらい回だった。だが絶望しない。しないったらしない。
もしかしたら次もおさらい、という可能性もあるけどね。
今のうちに、本編読み返してて気になってたところメモ。
キエサルヒマで一般的に使用されている言語、つまり人間種族の言語は大陸新語で、これは天人種族から伝えられた大陸古語が口語化されたもの。
地人種族は大陸新語と地人語を使う、とあるが地人語はたぶん廃れてきてる。「悪魔」でヘルパートが地人語で地人兄弟に話しかけたとき、ボルカンは理解できなかったし、博識なドーチンも「危うく理解できなかったかもしれない」らしいし。
その地人語、実は本編に一度だけ出てきている。「暗殺者」p.195、ドーチンは厳密には違うけれど、とただしつつドラゴン信仰のことを「アウダトレス・テンポラス・アクティ」と言い表している。"audatress temporas acty"?自信ないが。元ネタあるっぽいけどなんなんだろー。