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だがしかし、金はない

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 「RD潜脳調査室」がおもしろい。初期こそアラも目立ったが、最近はそんなこともなくなってきた。こういう、少しずつ物語の全体像が明かされていく形式に、私はたいへん弱いのだ。いまさらながら1話を見逃してしまったことが悔やまれる。
 もうまもなくDVDも発売される。各巻2話収録の通常版と、6話収録で特典山盛りな特別版の2種類があるそうな。ぐぬぬ。普段「特典つけるぐらいなら安くすればいいのに」などとほざく人間だが、スタッフのコメンタリ、資料集といった世界観好きにはたまらん特典を入れてくるとはおそれいる。お、おのれー。

野球部員が11人いる!

 今年もまた甲子園がはじまった。昨日の新聞で甲子園に関連して、女子部員についての記事が掲載されていたので興味深く読む。
 http://www.yomiuri.co.jp/sports/hsb08/news/20080731-OYT1T00589.htm
 しかしまあ、こんな真面目に野球の話題をチェックするようになるとはね。数年前の自分が知ったら驚くにちがいない。

 よく知られているように、「おおきく振りかぶって」は雑誌連載分と単行本の間がかなりあいている。現在、単行本化されていない連載が5冊相当あるというから、単行本派は胸かきむしって苦しまざるを得ない状況だ。昨年、国会図書館でアフターヌーンを閲覧・複写している人を見かけたが、その気持ちは分からないでもない。
 そのうえ私は、基本的に可能な限りネタバレから遠ざかりたいので、おちおちファンサイトもうろつけないのである。弱った。ネタバレ注意の表記を見かけたら全速力で退避するとか、日記を見ないようにする、とか対策はあるけれども。
 しかし詳細は分からなくても「(キャラ名が)が…!はわわ」みたいなことが1行でも書いてあれば、なんとなーく雰囲気が察せられてしまうわけで。ますます出歩きにくくなるのであった。弱った弱った。
 さてそういう感じで知ったのだが、最近の連載分で篠岡になんぞ起こったようだ。ふむ、つまり1巻でネタ振りされていた、篠岡がマネージャーをしている理由が明かされるのかな。1巻のおまけページ(p.66)によると、篠岡は「野球が大好き。中学時代はソフトボール部。マネジになる決心をした理由についてはまたいずれ…」と意味ありげな説明がされている。しかもソフトボールの腕前はかなり良かったらしい。
 おそらく篠岡は、百枝とは違ったアプローチで「野球部の女子マネージャー」を描くために置かれたキャラだろうから、百枝の過去と併せてどう描かれるか楽しみだ。
 誤解されるような書き方でもうしわけないが、おお振りを知った当初、私は篠岡がなぜ必要なキャラクターなのか分からなかった。「監督・顧問・選手」はともかく女子マネージャーが部の運営に必要だとは思えないし、本筋にもまったく絡まないからだ。今作が野球漫画というより、野球「部」漫画であることを考えれば、父母会や応援団同様、女子マネージャーがいても別に不自然ではない。にしても、篠岡が出てくるのは単行本のおまけページのみだという事実は、私の中にいる邪推の虫がむくむくと起きあがってくるには充分である。
 西浦高校野球部の選手が10人でなければならない理由は分かる。野球をするためには9人の選手が必要だし、また9人だけでは、大会を勝ちあがっていくことは不可能だからだ。では部員が11人いる理由は、はていったい何なのだろう。

灰とダイヤモンド

 アンジェイ・ワイダ作品はいくつか日本語のソフトが出ているものの、残念ながらというかもちろんというか、レンタル屋には置いていない。しかしさすが名作と呼ばれるだけあって、図書館には何本かの所蔵があった。感謝感謝。というわけで、今回は「灰とダイヤモンド」を借りてきた。
 描かれるのは1945年5月、ドイツ降伏直後のある一日だ。視察に訪れたポーランド労働者党幹部の命を狙うゲリラの青年は、ほんのつかの間の恋に浮き立ち、自身の生き方に悩み、傷つきながらも任務を遂行する。しかし翌朝、青年もまた射殺され、ごみ捨て場の中で苦しみながら息絶える。
 映画で描かれているのはこうした一夜の出来事のみだが、原作はもう少し周囲の事情がこみいっているらしい。その名残りか、主人公に直接関わる人物以外にもいわくありげな人間が登場する。パーティに集まってきた人々、組織の少佐など、かれらは各々が抱える事情をそれとはなしに語っており、またその根が共通していることからこの映画は群像劇的と言えるだろう。
 ために、状況としては占領が終わったところだというのに、漂う雰囲気は開放的なものとはいえず、全編フィルムの光と影によって美しく彩られた陰鬱さで満たされている。特にラストシーンのなんともいえない悲痛さが印象的だった。

ブラック・ラグーン シェイターネ・バーディ

 メディアミックスの一環として小説化、または漫画化される場合、ストーリーは若干の味つけをほどこされつつ原作通りの展開になるか、または挿話的なオリジナルになるかの二通りになることが多いのではなかろうか。神林長平版「ラーゼフォン」のように、設定すら原作からかなり離れたものになる場合もあるが。
 さてブラクラ小説版はというと、日本編の直前という設定でラグーン商会が巻き込まれたある事件を描いている。ロックがラグーン商会に誘拐されてから2年経っていると述べられ、バラライカや張の名前が出てくるなど、いくつかの設定が明かされている。特にバラライカについては、アフガン時代の姿が描かれたり、ダッチへの借りとは何かが出てきたり、と原作で出てくると思われていた重要な設定が満載。以前、インタビューでバラライカの過去はかなり作りこんであるとあったことだし、作者は原作者の広江礼威ときっちり打ち合わせをしたようだ。
 その作者こそ、今をときめく虚淵玄である。……などと言いつつ、私はかれの関わったゲームをプレイしたこともないし、「Fate/Zero」も読んだことがない。ただネット上で高い評価を受けているので、そうかならばブラクラ小説版も面白かろうと無責任に期待していただけだ。そして実際に面白かった。
 ブラクラの魅力たる木曜洋画劇場イズム――浅いストーリーと、キャラクターたちの「クールな」言動、ドンパチ、ときたま差し挟まれる底の抜けたお笑い――満載で、なおかつファンサービスも忘れない。失礼ながら、ますます混迷を深めつつある最近の原作よりも良かった。
 それにしても張さんはいつもおいしいところばかり持っていく。そこがかっこいいのだけど。

まいご3兄弟

 見たよ。とりあえずひとこと感想を書くと「どこの少女漫画かと思った」である。

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ETV特集 アンジェイ・ワイダ

 感想を書こう書こうと思っているあいだに放映から一ヶ月が経過し、BSで二度も再放送された。しかもBSでは地上波よりも時間が長かったらしい。横暴だ。<もう加入したらどうか
 アンジェイ・ワイダとはポーランドの映画監督である。世事に疎い私でさえ「灰とダイヤモンド」というタイトルくらいは聞き覚えがある巨匠だ。沢田研二と混同している可能性もあるが。
 82歳のワイダが撮った(おそらく最後の)新作「KATYN」と、そこにいたるまでの代表作を取りあげつつ、映画、そしてポーランドに対するかれの思いをたどっていく。番組がおもしろかったので、「アンジェイ・ワイダ自作を語る」(平凡社)という本を借りてきてしまった。番組だけでは分からなかった知識が補強できたけれども、訳文が「?」状態。やたら読みづらく、読了するのに時間がかかった。ポランスキーとの対談の中で「ポランスキーはいまシュピルマンの回想記を映画にしている」との記述が登場し、にやりとさせられた。もちろんその映画とは言わずと知れた「戦場のピアニスト」である。
 番組内で紹介された5作品は、いずれも戦中・戦後にかけてポーランド現代史の中でも暗く重たい部分を扱っている。ために、冷戦中はきびしい検閲をいかに突破するかがワイダをはじめ数々の表現者にとって大きな障害となった。「KATYN」など、まさしくソ連が崩壊してはじめて作ることが可能になった映画だ。「この映画は父と母の物語だ」と語るワイダにとって、00年代まで永らえたのはなによりの幸いだったろう。
 しかしそんなことよりも、表現することとはなにか、という点について私は改めて考えさせられた。ワイダの立場では、本当に表現したいこと、観客に伝えたいこととは、ともすれば削除を求められるものだった。だからこそワイダはシナリオや台詞によらず、画面に映し出されるものにこそかれの意思をこめたのだ。
 そうした「書かずに描く」という表現方法、また「なぜ、わたしは、それを表現せねばならないのか」という動機について思いを馳せてしまう番組だった。

怖い話

 すべては冗談です。

 現在放映中のとあるアニメは、ふたりのヒロインを支持するファンの間で対立が生じているらしい。いや、対立というのは正確な表現ではないかもしれない。なにせこの私、当のアニメを見ていないものでネットで仕入れた噂話程度の知識しかないのだ。
 で、聞くところによると肩入れしていないヒロイン、あるいはつれない態度をとる主人公への罵詈雑言が今日もネットを飛び交っているそうな。まあ好悪を表すのに感情的な言葉で語るのが昨今のネットでは主流である。どんなに激した言葉で表していようと、使っている本人たちは架空のキャラクターに本気で殺意を抱いていると取るのは早計であろう。ついでに言うと、刺激の強い言葉に慣れすぎて麻痺しているんだろうね。くわばらくわばら。
 当該作に限らず、とくに恋愛面で対立するキャラクターについてはそのどちらを支持するかで現実の人間関係にも微妙な影響が出るような印象を受けるのは気のせいじゃろか。たとえば、ヤンとラインハルトどちらが好きかでファンの間で喧々諤々の論争に発展したことが……あったかもしれないなあ、なにせ息の長い作品だから。ジョーと力石、アムロとシャア、飛雄馬と花形、あるいはマヤと亜弓。なんでもいいがそういうライバル関係だとファン同士での対立はでてこなさげ。…重ねて言うが、これは単なる印象である。実態はどうか知らんよ。

 まあ私のようにカップリングに関心の薄い人間は、だれとくっつくべき云々とか、その種の話には縁がない、と思っていたら案外そうでもなかったことが先日判明した。
 以前好きだった作品についての情報を調べようと、ググってみることがある。たいていはWikpediaである程度の情報を得られるが、より細かい情報、あるいは感想を求めてファンサイトを渡ることも多い。
 先日そんな理由で検索をかけた某漫画は、主人公の少女に恋人(以下A)がいる、という設定だ。物語の中で、主人公に思いを寄せる少年(以下B)が登場する。このB、出番はわずかながらなかなか人気があり、ひょっとするとファンの数はAより多いのではと思える。主人公といい感じになりつつ、結局Bは失恋してしまうのだが、それについてのコメントがわりと怖かった。
 いわく、「主人公は本当はBが好きだった」「Bと結ばれたほうが幸せになれた」「Aは主人公を幸せにできない」「作者はBとくっつく続編を出すべき」「Aいらない」などなど。怖いよ(爆)!
 そしてA派は最終的にくっついた、つまり公式という優位からか(?)無言なのだが、たまにうっすら本音が透けて見えて怖い(爆)!!普段使わないようにしているカッコ文字を使いたくなるくらい、怖い(爆)!
 特にどっちが好きということもない私でも、そのような文章を読んでいて言い知れぬ何かを感じてしまった。つまり、悪意である。
 贔屓のキャラに幸せになってほしいという思いはわかる。肩入れしている相手がないがしろにされた、と感じたときの寂しさも承知しているつもりだ。だがしかし、だがなあ…。はたしてそれは、物語の本筋を変更してまで叶える望みだったのだろうか。
 得も言われぬもやもやを胸の内に生じさせつつ、ブラウザを閉じる。いやあ、縁がないと思っていたが俗に言うカップリング抗争ってこんな感じなのか?恐怖は足の裏に忍び寄っていたんだね(爆)!つーか、10年も前の漫画でこれなのだから、現在進行形の作品ならネットの効果もあってヒートアップはただごとじゃなかろうな。
 冗談はさておき、なにかを過度におとしめたり、嘲ったりするような発言はしないようにしよう、と自戒するのであった。

 今気がついたんだが、これってかなりデリケートな話題なんじゃね?

来週ちりとて番外編

 この暑さに耐えかねて、とうとう冷房をつけてしまった。さながら脳みそをとろ火で煮とかされるような状態が続くとさすがにつらい。冷房病もお断りだが、だからといって熱中症になっては元も子もない。それにしても、冷房をつけて頭痛が治まったのはいいがお腹が壊れたのはどういうことだ。
 そうそう、ちりとてちん番外編のCMを見た。「迷子になった兄弟子たちが扇子職人の家でご厄介になる」というあらすじで、いったい話をどない動かすねんと思っていたけど、なるほどそう来たか…。確かに、本編中で草々と小草若を描ききっているし、プッシュするとしたら順当なところだろう。
 そして制作発表時には関西だけの放映とされていたのが、BSで放映となり、ついにはめでたく地上波での全国放送となっている。よかったよかった。

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銀英伝

 銀英伝をなんとはなしに読み返す。ひさびさに読んだけど、やっぱ面白いわ。
 さて銀英伝の話が出れば、おまえはどっち派か、ということになるわけだが(笑)、初めて読んだころは思いっきり同盟に肩入れしていたのに、いま読んでみたら特にどちらの陣営に傾くということもなく。ちなみに好きなキャラを挙げてみると、ビュコック、メルカッツ、フェルナー、アッテンボロー…(年齢順)、とたいへん分かりやすい。
 好き、とは少し意味合いが違うがオーベルシュタインやロイエンタールもいい。わりと説得力のない展開が続く原作6巻以降、わけても9巻で起こる叛乱はどう贔屓目に見ても無理があって、叛乱の動機付けはもうすこしなんとかならんかったのか、と首をひねらざるをえない。しかし、これがアニメ版になると役者諸氏の演技で納得させられてしまう。むしろ後期は作画面はともかく脚本や演出がいろいろとアレだが、声で半分以上カバーされてしまうという、まさに銀河声優伝説の名にふさわしい出来。
 こんなこと言ってたらアニメをまた見たくなってきた。でもDVD版はリテイクカットが気にくわないんだよなー。80年代のセル画に突如として差し挟まれる00年代のデジタル彩色。耽美系の絵柄がのっぺりしたものになってしまうのは、まあしたかないとしても、デジタル特有のテカテカした色味がまったくそぐわない。せめて現在のようにセルに近い彩色になってから修正してほしかったな。

マッハ!!!!!!!!

 これ見たかったんだよー。ありがとう木曜洋画劇場。
 「ノー・スタント、ノー・ワイヤー、ノー・CG」を売りにしたアクション映画。盗まれた仏像を取り戻すため、古式ムエタイの修行を積んだ主人公が都会へ出かけてエンヤコラ。邦画にはもうない泥臭さ、汗臭さがいい感じでごわす。あと、単純にハッピーハッピーな終わり方でないのもいい。
 マトリックスや少林サッカーのような、CGやワイヤーをフルに活用したアクションが主流のなか、極限まで高められた肉体だけが可能とする生(なま)の殺陣は凄まじい迫力だった。これぞまさに鋼の肉体。まさに木曜洋画。いやあ、実にいいものを見せてもらった。

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